もう、Gスピリッツの最新号はご覧になれましたか。年末年始の忙しい中ではありますが、ぜひゆっくり読破してみてください。さて、私は脱稿後に旅に出ました。行先は九州。なぜ九州かといえば、ここには怖い熊がいないからです。
今回のターゲットは福岡県。と言っても、博多には一切足を踏み入れていません。行ったのは筑豊地域(直方市、宮若市、飯塚市、嘉麻市、田川市……)と、北九州地域の行橋市、豊前市、苅田町、上毛町といった田舎の山城を登ってきました。ここらには観光地らしい観光地はない。唯一行った観光地が、カルスト台地の平尾台。それでも観光客は極少でした。お陰様で、広い空を使ってドローンの旋回飛行テストを楽しむことができた。

これで山口県の「秋吉台」、愛媛と高知に跨る「四国カルスト」に続き、この「平尾台」を制して日本三大カルストをコンプリートしたことになる。前々から行きたいと思っていた石灰岩台地なのだが、今回はここに寄る時間がぽっかりできたので、足を向けたのである。実はこの数時間前、私は田川郡福智町金田にあるお寺にいた。それは浄土真宗の浄円寺というお寺だ。なぜそこに行ったかというと、このお寺に豊登(定野道春)さんのお墓……があるからである。場所は平成筑豊鉄道糸田線の金田駅から徒歩5分くらいの距離で、お隣が福智町役場という町の中心地。豊さんが生まれ育ったこの金田町は、2006年の合併で福智町と名称が変わった。
筑豊は明治より日本一の石炭産出量を誇った炭鉱群によって栄えた地区だったが、石炭の枯渇と石油への依存により、1976年には全山が閉鎖し、人口はどこも減少した。だが、定野道春の少年期にはまだまだ石炭が採れていて、金田の町も大いに栄えていた。五木寛之の『青春の門』とほぼ同世代・同舞台である。

生まれは1931年3月31日。海に憧れた道春少年は14歳までここ金田で過ごし、現・北九州市戸畑区にあった帝国製鐵の海員養成所に入って三等機関士となるも終戦となり、八幡製鉄で力仕事をしていた。怪童として鳴らした道春少年は、小倉に巡業に来た横綱・羽黒山にスカウトされ、47年春に立浪部屋に入門。1947年6月場所に本名の定野で初土俵を踏む。
1949年初場所より、故郷からとった「金田山」の四股名を同年秋まで名乗り、豊登に改名。最高位は前頭15枚目。24場所在位して171勝133敗(十両優勝1回)で勝ち越している。親方と不仲により引退したのは1954年9月場所で、10月には日本プロレスに入門し、11月にはデビューしている。以降の活躍はみなさんもご存知の通り。ちなみに相撲に残された記録によると、恐らく入門時の計測だと思われるが、身長は173センチ、体重は105キロだった。

プロレスラーとしての最高位は、1964年12月にザ・デストロイヤーを破ってWWA世界ヘビー級王者になり、翌年まで保持した時代であろう。後に年表しか見ないファンからすると、豊登は馬場時代へのワンポイントリリーフと思われがちだが、「インター王座が復活するまでは明らかに豊登が不動のエースだったよ。だって怪物的な馬場よりも、力道山時代からずっとテレビに出続けていた豊さんの方が断然人気があったもの」と竹内さんや吉澤さんは口を揃えて言っていた。
そう、私よりも数年年上の近所のお兄さんや従兄たちは、その頃、中学生か小学校の上級生だった。怖そうな力道山よりも、愛嬌のある力持ちの豊登の方が老人から子供までに愛されたというのもあったようだ。そして力道山死後の豊登が中学生たちのハートにビタンにハマったようで、彼らは風呂上がりにいつもパコーンと両腕で胸を鳴らして「豊登だあ」と叫びながらベアハッグの真似をしていた。
今回の旅の途中に偶然連絡してきた、私より2つ年上の上井文彦さん(元・新日本プロレス執行役員)も「えっ、お墓に。僕は豊登さんが一番好きなプロレスラーだったんですよ」と言って、「僕も行きます。お寺さんを教えてください」とやたら興奮していた。日本にプロレス団体が1つしかない時代……力道山死後のプロレスファンたちの心は、豊登一択、ど真ん中だったようだ。
ちなみに豊登が日本プロレスを解雇され、馬場が新エースで開催された『第8回ワールドリーグ戦』。66年4月10日、筑後市熊野町興行団地で開催予定の第17戦は、前座3試合で興行が中止となり、払い戻しをしている。西日本スポーツの記事によると「熊本から来る予定のガイジン選手が来なかったため」とされているが、デイリースポーツによると不入りだったために中止になったとある。反日プロ派の同紙によると、リーグ戦を通して不入りが続いたと暴露している。一番人気の豊登抜きでリーグ戦をやるのは、新エースの馬場にとってもまだ荷が重かったということなのだろうか……。
私は、東京プロレスを23歳のアントニオ猪木ではなく、全国区の人気者である豊登を大エースに押し立ててスタートさせていれば、もう少しだけ延命したのではないかと思っている(どっちみち潰れたであろうが……)。

それはさて
それはさておき、お寺の山門の前に立って私は茫然とした。このお寺は保育園を経営していて、保育中に部外者は境内に立ち入ることができなかったのである。山門にはその注意書きの書かれた柵があって、園児たちも境内から外部に出られないし、私も中へ入ることができない……。境内にこだまする子供たちのはしゃぐ声……「ありゃーっ」と私は立ち尽くす。
お寺に電話を掛けてみる手もあった。だが、ここのご住職は園長さんを兼ねているらしい。無理してお願いして入れてもらうのも失礼と思った。

豊登さんが急性心筋梗塞で亡くなったのは1998年7月1日。享年67歳。同年9月27日、竹内さんと新間寿氏がこのお寺を訪れている。それは週刊ゴング10月22日号(736号)の竹内さんの連載『昭和プロレス浪漫』で記事になった。福岡空港からお寺まで車で案内したのは、元新日本プロレス営業部次長で、博多在住の吉田稔氏だった。新間さんにとっては1954年の人形町の力道山道場以来の長い付き合いだ。
この時の記事で、豊登さんの墓はなく、納骨堂に安置されていることを知った。当時、新間さんは「あんな遠くの寺まで行ったけど豊さんは墓がないんだよ。お堂に一緒にされていた」と嘆いていたが、今は都内でもこういう形式のお寺や施設が増えて来た。そういう面でこのお寺さんは流行の先端を行っていたことになる。
墓所がないことも最初から熟知した上で、ご住職にお願いして納骨堂まで辿り着きたかったのだが……。園児たちが帰る時間を待つわけにもいかず、仕方なく私は山門の前で、本堂と納骨堂らしき建物に向かって手を合わせて退散することにしたのである。

私が豊登に熱中したのは国際プロレスになってからで、日本プロレス時代の記憶は薄い。不器用だけど愛嬌があって、好きなレスラーの一人である。私は「昭和プロレスを支えた日本人プロレスラーBEST20」で豊登を上位に選んでいる。
新日本では1973年1月21日に稲築山野鉱業グラウンドで試合があった(主催者発表3950人)。ここが生まれ故郷に一番近くでやった凱旋興行だろうか。三井が経営していた山野鉱山は、1965年6月にガス爆発事故で237人が亡くなったことで有名になり、興行が打たれた73年に閉山になっている。昼間の1時半開始とはいえ、1月の野外は寒かったであろう。
豊登はセミ前でジェフ・ポーツを逆片エビでギブアップさせている。何とこの日は日曜日でダブルヘッダー。場所を同じ福岡県の筑紫野市二日市中央公民館裏広場に移動して、6時半から試合をしている(これはもっと寒かったはずだ)。その地元凱旋から1ヵ月後の2月20日の横浜文体を最後に、豊登はプロレス界から去った。入れ替わりに新日本には坂口征二が入団し、NETも放送を開始する。新体制の新日本から怪力の古豪は弾き出されたのである。
1991年4月30日の両国国技館。新日本で『豊登道春 激励チャリティー大会』が行われ、久しぶりにリングイン。編集長だった私もセレモニーの時にリングに上がって、金一封を豊登さんに手渡している。「記念品よりもお金がいい」ということで10万円を包んだ記憶がある。「でも、集めた金は豊さん自身に行くとすぐにギャンブルとかで使っちゃうんで、弟の定野多可止さんに渡すように」なんて裏でやっていたのを思い出す。それが結果的に公式での豊さんとの最後の接点となる。
それから7年後、葛飾区の病院で孤独死した豊登さんは、弟さんによって故郷の金田へ帰り、この浄円寺に葬られたのだった。本来ならば「私も豊さんのお参りに行きましたよ」って新間さんに報告したかった。「おおっ、そうか、ありがとな」という言葉が聞こえて来そうだ。けれども、その新間さんももういない。
長い時間をかけて力道山、馬場、猪木と昭和プロレス三英傑のお墓参りをすることになったが、この3人の間に抜けていたピースを今回の旅でハメ込むことができて、私的には三大カルスト制覇以上の達成感を感じた。きっと今頃は新間さんも天国で豊さんと再会していることだろう。
ということで、みなさん、お年を……。来年のこのコラムは1月7日を予定しています。