ここで再三触れているが、“聖者2世”エル・イホ・デル・サントの引退試合が12月13日にパラシオ・デ・ロス・デポルテスで行われる。私が彼と最初に会ったのが父エル・サントの引退試合があった82年8月22日のパラシオ。イホはこの年にデビューし、UWA世界ライト級、ウェルター級を始め、多くのベルトを締めた。タイトル歴ということではNWA世界ウェルター級&ミドル級とナショナル3階級(ウェルター級、ミドル級、ライトヘビー級)を制した父親には遠く及ばなかった。ただ、一つ父を超えている点はマスク剥ぎ戦の勝利の数だろう。父はサントとしての40年間のキャリア(前身のキャラを加えると実際の現役生活は49年間)でゴールデン・テラー、ブラック・シャドー、アルコン・ネグロ、エル・グラディアドール、モンヘ・ロコ、エスパント1号、ディック・アンヘロ、ボビー・リーなど10人ばかりのマスクを剥いだに留まる。しかし、イホは43年間の現役生活で数えきれないほどのマスク剥ぎに成功している。チャンピオンクラスの名のある選手だけを拾ってみよう。コスモナウタ、アリストテレス1号&2号、エスパント・ジュニア、カト・クン・リー、シルバー・キング、プリンシペ・イスラ(現エレア・パーク)、レオン・チノ、アール・スタール(セサール・ダンテス)、ゲレーロ・デル・フトゥーロ、スコルピオ・ジュニア、ペンタゴン・ブラック…。生贄になった数は40名を超える。マスカラ戦での勝利の数だけならば92年のルチャ・リブレ史において、エストレージャ・ブランカがダントツ(タウロ、イラスー、ポラコらに勝利)なのだが、イホ・デル・サントはそれに次ぐ記録保持者であることは間違いない。ただ対戦者の質はイホには敵わないであろう。そのイホ・デル・サントの引退ツアーを緊急募集している(12月11日~15日)。師走で忙しい時期ではあるが、もし可能ならば参加してみませんか(メキシコ観光:伊藤まで)。

さて、先週に引き続いて今週も昭和の盛岡プロレス史について書くことにしよう。舞台は1957年12月に県内の公立体育館の第1号として開館した盛岡市体育館(盛岡市上田3丁目)。先週触れたように1963年5月10日、『第5回ワールドリーグ戦』でプロレス興行として初使用された。1967年6月に岩手県営体育館(盛岡市青山2丁目)が出来たにも関わらず、日本プロレスも国際プロレスも市の体育館で行われていた。1972年にスタートした新日本プロレスも同様である。その最初は『旗揚げシリーズ第2弾』の最終戦の市体育館(5月24日)。去る11月2日、みちのくプロレス(『GRANDE UNO』)に参戦した藤波さんと県営の控室で盛岡プロレス話に花を咲かせた。「この県営も懐かしいけど、市の体育館も懐かしいねえ。最初の大会ね。お客さんが数十人しか入らなくて、興行を打つか中止にするか揉めてね。結局、小鉄さんの判断で決行したんだよね。たぶん、第1試合は俺と浜田でしたよ(15分ドロー)。えっ、あれを4000人と発表したの(笑)。時代だねえ…」。

では岩手県営体育館を最初に使ったのは何処の団体か? それは国際プロレスだった。同じ1972年の5月6日。『第4回IWAワールド・シリーズ』の優勝決定戦のストロング小林がモンスター・ロシモフを破って優勝した試合である。新聞の記録によると「盛岡市体育館」になっていて、私もずっとそれを信じ込んでいた。ところが当時のゴングのグラビアを改めて見ると記述が「岩手県営体育館」になっている。写真を改めてチェックすると、特徴ある天井の様子から県営で間違いなし。ここを使用するには恐らくTBS系列のIBC岩手放送の力が働いたのであろう(主催者発表は5500人)。新聞の記述を信じればであるが、新日本における県営での初興行は75年2月28日。メインが猪木vsマイティ・ズール。藤波さんは『第2回ワールドリーグ戦出場者決定リーグ』で岩手出身の藤原喜明を逆エビで破っている。「そうなんだあ、藤原とねえ…。その時はお客がいっぱい入ったんじゃないかな」と藤波さんが呟く。主催者発表は何と7500人。いくらなんでも、それはオーバー過ぎるぜ(1980年の実数発表の際には2200人だった)。

それから4ヵ月後の6月13日、国際は県営初のタイトルマッチをやっている。草津&井上vsキラー・トーア・カマタ&デューク・サベージのIWA世界タッグ王座決定戦である。先週、この試合は盛岡市体育館と書いたが、改めて写真を見ると、これも明らかに県営体育館だ。それなのに当時の記録では盛岡市体育館になっているじゃないか。前述のワールド・シリーズの時と同様、こういう間違いってよくある。「市」と「県」とか…同じ地方都市に大きな体育館が2つあると、地元民はわかっていても、東京から行くマスコミはこういう間違いをよくやらかす。全日本も同じ1975年の10月23日に県営で初興行を打つ。全日本は翌1976年9月30日、ここで馬場&鶴田vsアブドーラ・ザ・ブッチャー&ワルドー・フォン・エリックのインター・タッグ選手権を決行。さらに1977年10月24日には馬場vsケン・パテラのPWFヘビー級選手権をやっている。


そして1978年マスカラスvsデストロイヤーのUSヘビー級選手権と3年連続タイトルマッチを打っているが、観客の動員には繋がらなかったようだ。私の観たこの仮面貴族vs白覆面の魔王の選手権は大して客が入っていなかったように記憶している(デストロイヤー王座奪回)。


1980年10月17日には馬場&鶴田vsビル・ロビンソン&ワフー・マクダニエルのインター・タッグ選手権も行われているが、この時はお客が入ったようだ。新日本は1976年、78年、81年と間隔をあけて盛岡に来るが、こういう地方都市ではほとんど主要なタイトルマッチを打たない。タイトルに権威を付かせるためであろう。タイトルマッチを安売りせず、地方都市の動員の道具にしない。それが新日本のポリシーのようだ。国際は1977年3月22日、『第6回IWAワールド・シリーズ』の期間中に久々に聖地・盛岡へやって来るが、ジョニー・クインvs寺西、鶴見vsアサシン、大位山vs鶴見…というパッとしない公式戦が並んで、かつての栄華はない。TBS時代の御威光はさすがに薄れてしまったようだ。翌1978年7月が国際最後の盛岡となった。県営を借りる資金も枯渇していたのだろう。市体育館を最後まで使ったのは新日本だったと思われる。2月に県営を初使用した1975年の10月27日に市の体育館で興行を打ったのがラストのプロレス興行である。この市体育館は上田3丁目にあり、1999年の全国高校総体に合わせて1996年に建て直された。旧市体育館は39年間の歴史を閉じる。現在は「ムセンコネクト盛岡アリーナ(盛岡体育館)」という名称になっている。この市体育館と青山2丁目の県営体育館は車で数分の距離と極めて近い。

先週も触れたように県営体育館は、日本大学理工学部の小林美夫研究室が設計し、1967年6月に竣工した鉄筋コンクリート製、PC版及び吊ケーブルによるサスペンション構造という斬新な建造物。2020年に「日本におけるモダンムーヴメント建築」に認定された県営体育館は改築を重ねながらも県下で最も古い体育館として生き続けている。こういう体育館はいつまでも大事にしてほしいものである。昭和から平成へ…岩手県営は、1993年12月10日のスペル・デルフィンvs.SATO(ディック東郷)のマスカラ戦よりみちのくプロレスのビッグショー用の聖地となり、大事な時のみにここを使う。来年11月にも『GRANDE DOS』が開催されることが内定している。県営物語は続く…。ということで、私の盛岡プロレス話は、これにて“どんど晴れ”。