ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅

【第737回】盛岡のプロレス史(1)

先日、みちのくプロレスの『GRANDE UNO』で盛岡・岩手県営体育館へ行ったので、盛岡のプロレス黎明期~1970年代について書きたいと思う。私がこの体育館へ初めて行ったのは1978年9月11日、全日本プロレス『サマー・アクション・シリーズ2』第22戦。メインはミル・マスカラスvsザ・デストロイヤーのUSヘビー級選手権。開幕の鹿児島でUS王座から転落したデストロイヤーの奪回戦だった。このツアーで日本各地の体育館を巡って来たが、一番カッコいいと思ったのが、この岩手県営体育館だった。

ドローンで撮った岩手県営体育館の全貌。

これは日本大学理工学部の小林美夫研究室が設計し、1967年6月に竣工した鉄筋コンクリート製、PC板および吊りケーブルによるサスペンション構造という斬新な建造物。1990年4月に建て直された東京体育館と構造が似ている。小林氏は翌年10月に完成した秋田県立体育館も設計している。この岩手県営体育館と同期に完成したのがメキシコシティのパラシオ・デ・ロス・デポルテスである。ドローンを飛ばして上空から県営体育館を俯瞰したらパラシオに見えて来た(!?)。いや、岩手県営は三葉虫で、パラシオはアルマジロに似ている。盛岡からメヒコへ…かなり強引なフリだけど、きたる12月13日、このパラシオでエル・イホ・デル・サントの引退試合が行われる。2代目の聖者も御年62、キャリアは42年になった。棚橋弘至の引退前に聖者2世の引退も見届けてほしい。メキシコ観光では12月11日出発15日帰国の弾丸ツアー(アレナ・メヒコとパラシオの2試合観戦)を企画しているので、是非という方はお問い合わせください。聖者伝説の最終章を見届けよう。

12月13日がサントのラストマッチ。

さて、この際だから盛岡のプロレスについて時を遡ってみることにしよう。盛岡市内でプロレスが初めて行われたのは私の生まれる半年前…1956年5月15日。場所は「盛岡馬検場」であった。メインは力道山vsラッキー・シモノビッチ。セミはシャープ兄弟vs東富士&遠藤幸吉。ちなみに同日、国際プロレス団は日大講堂で東京進出第1弾興行を打っている(木村政彦&清美川vsラウル・ロメロ&ヤキ・ローチャ。都内でのルチャお目見えの日だった)。

初の盛岡大会の結果を載せた1956年10月20日発行の『RIKI』No.10。

話を盛岡へ戻す。岩手県や青森の西部は平安時代から南部馬の産地として有名で、盛岡では江戸時代初期から250年間、馬町(現・南通り2丁目付近)で馬市が開催され、活況を呈していたという。武士の時代、良質の馬は現在のマイカーであり、農民にとってはトラクターであり、戦時には戦車に相当した。日清、日露戦争では軍馬として取引され、馬市は「盛岡馬検場」と言われるようになる。場所は明治45年(1912年)に新馬町(現・松尾町17-10)に移転し、大正、昭和、平成…1996年まで馬市が続いた。盛岡にまだ体育館の無い時代、力道山は盛岡市内で最も人が集まりやすい、ここに目を付けて興行を打ったというわけである。

馬市で賑わう昭和期の「盛岡馬検場」。
現在の盛岡馬検場の跡には大きな看板と馬の親子象がある小さな公園に。

1963年5月10日、『第5回ワールドリーグ戦』の盛岡大会。メインは力道山vsフレッド・アトキンス、セミがキラー・コワルスキーvsグレート東郷であった。使用されたのは盛岡市体育館(盛岡市上田3丁目)。この市体育館は、1957年12月に県内の公立体育館の第1号として開館した施設だ。さて、その日のセミ前は馬場vsヘイスタック・カルホーンで、馬場は1-2でリングアウト負けを喫している。猪木は5日前の札幌大会での遠藤戦で足を負傷し、以後欠場が続き、この東北ツアーに同行していたのかは不明。この後、予定されていた米国修行も流れてしまった。ちなみにこの日は日本テレビ中継があり、当日の22時から22時45分の枠で放送されている。力道山死後もこの盛岡市体育館が県庁所在地における主戦場として定着する。1965年10月6日、『ハリケーン・シリーズ』。メインは馬場&豊登vsザ・ブッチャー(ドン・ジャーデン)&カール・カールソン。猪木は米国武者修行で不在だった。セミはアサシンA vs 芳の里。ちなみにこの翌日の釜石大会の第1試合で草津清正(グレート草津)がデビューしている(時間切れ引き分け)。敢えてラグビーの聖地での初陣だったとはいえ、ラグビー界の花形スターもプロレスでは特別扱いをされなかった。

1965年10月8日付の東スポは1面と3面で盛岡大会を掲載。

1967年6月7日、『ゴールデン・シリーズ』第9戦の盛岡市体育館。この日のメインは馬場&猪木&グレート・イトー(上田)vsドン・レオ・ジョナサン&アーク・アーキンス&ディック・スタインボーン。まさにこの月に県営体育館が完成したのにも関わらず、プロレスは常に市体育館で行われる時代が続く。日本プロレスは1968年9月、69年10月、70年7月、71年6月と市体育館を使い、一度も県営を使用することなく崩壊している。国際プロレスも1968年11月13日から市体育館を使い出す。TBS系列の強い東北で国際が善戦してきたことは今まで何度も触れている。盛岡以外にも、千厩、花巻、宮古、一関、水沢、遠野、江刺、釜石、久慈など、岩手県下で細々と興行を打つばかりか、本丸の盛岡市体育館では初のタイトルマッチを決行した(TBS系列IBC岩手放送によるTV中継)。それが1969年8月12日。メインは草津&木村vsティト・コパ&ルター・レンジのヨーロッパ・タッグ選手権。以後、国際はタイトルマッチを盛岡で連発している。

初来日の帝王ガニアは草津とAWAの防衛戦。

1970年2月9日にはバーン・ガニアvs草津のAWA世界選手権が行われ、同年8月3日には杉山vsエドワード・カーペンティアのIWA世界ヘビー級選手権が組まれた。これらもTVマッチである。1971年10月27日には杉山&木村vsダニー・リンチ&バジル・リッキーのIWA世界タッグ選手権があり、1972年5月6日には『第4回IWAワールドシリーズ』で小林がモンスター・ロシモフを破って優勝したのもここである。1975年6月13日には草津&井上vsキラー・トーア・カマタ&デューク・サベージのIWA世界タッグ王座決定戦が行われたのもこの市体育館であった。

杉山vsカーペンティアのIWA戦も盛岡。

ここで忘れてならないのが1973年8月18日~23日の陸中海岸で行われた幻の『合宿所シリーズ』(仮称)のこと。国際の一行は陸中山田の民宿に合宿しながら非公式の巡業を宮古、山田、大槌、田老などの野外で打ち、地元に100万円くらいで興行を売って大儲けしたというのだ。参加ガイジンはなしで、大位山さんや阿部修レフェリーらがマスクを被ってガイジン役を演じていたという。そして何と言ってもこの巡業で吉原社長が試合をしたというから驚きである。「陸中で数試合くらいやって、最後は岩手県営体育館で打って4000人くらい入れたんですよ」と大位山さん。私は以前、県営体育館に何か資料が残っていないか問い合わせたことがある。73年8月23日と、ほぼ日にちが特定できるからであるが、「残念ながらその当時の紙資料は残っていないんですよ」と言われて、調査を断念した。でも、これは大位山の勘違いで、たぶん、これは県営ではなく、市の体育館だったのではないかと思う。国際プロレスが県営を初めて使うのは1977年からである。その前後の年に国際は盛岡市体育館で興行を打っているのに、1973年と74年は試合をしたというプロレス業界の公式記録は残っていない。誰かこの幻の大会を観た盛岡市民はいないかなあ。三陸だけでなく、この盛岡でも吉原社長は試合をしていたのかなあ……。ちなみにこの盛岡市体育館は老朽化のため1996年に建て直されて、現在は「ムセンコネクト もりおかアリーナ(盛岡体育館)」という名称になっている。盛岡在住のザ・グレート・サスケ会長は言う。「建て直される前の盛岡市体育館は僕らが中学生の1980年代、体操や新体操の市民体育大会や中学校総合大会の聖地だったんですよ。プロレスでは、そういう長い歴史があったんですね」。サスケさんの父上などは73年の国際の非公式大会を観に行った世代だと思うのだが……。

96年、市体育館の後に出来た新体育館。


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