先週、ジョージ・フォアマンとの思い出話を書いたら、みなさんの反応が良かったので、今週もボクシング話をしたいと思う。私は子供の頃からプロ野球、大相撲よりも、マニアとしてプロレスとボクシングの二刀流だった。ボクシングの世界戦のある日は、スペシャル番組(15ラウンド制だったから90分の特別枠)のために、我が家では父と兄と一緒に正座してテレビ観戦していた。プロレス中継の場合はもっとリラックスして観ていた。それだけボクシングの世界戦は特別の行事だったのだ。後年、「別冊ゴングは買っていたけど、本誌はボクシングが一緒だから買わなかったよ」なんて話を聞くと、私はちょっと寂しく思った。プロレスとボクシングはもともと同じ穴の狢である。1930年代、アメリカではどっちもアスレチックコミッショナーの同じ管轄下にあったし、旧NWA(ナショナル・レスリング・アソシエーション)の前身がNBA(ナショナル・ボクシング・アソシエーション)だったりしたわけで、月刊の専門誌も当初はボクシングとプロレスが半々で同居していた。それはメキシコの『クリンチ』誌→『ボクス・イ・ルチャ』誌、『アレナ』誌、『KO』誌のような週刊誌も同じだし、日本では週プロの前身『プロレス&ボクシング』誌もプロレスとボクシングを半分ずつ載せる装丁の雑誌だった(1957~72)。メキシコでは1930年代、ルチャとボクシングを1興行の中で混合する大会が普通に組まれていたし、コミッショナーも90年代まで一緒だった(事務所は今も同じ)。日本では力道山によりプロレスの興行が定着すると、ボクシング担当の新聞記者たちがプロレス担当と兼任させられることが多かったようだ。私がプロレスの世界に首を突っ込んだ80年代初頭にも、ボクシングと兼任するベテランの新聞記者がまだいた。

私にとってプロレスもボクシングも載っていた月刊の『プロボク』と『ゴング』は夢のような本で、72年に『プロレス』誌と『ボクシング・マガジン』誌が分離した後も、私はずっと『ボクシング・マガジン』を買い続けていた(プロレス誌はつまらないので途中でギブアップ…買うのを止めた)。特に前田衷氏が編集長だった70年代の『ボクシング・マガジン』誌のクオリティは最高で、ゴングもその時代、ボクシングの部分だけは叶わなかったと思う(前田さんは80年代にゴングのボクシング部門のメインライターとなる)。現在、日本のプロボクシングは黄金時代を迎えている。スーパーバンタム級4団体統一王者の“モンスター”井上尚弥を筆頭にバンタム級は4団体のすべての世界王者が日本人選手だ(WBA=堤聖也、WBC=中谷潤人、IBF=西田凌佑、WBO=武居由樹)。そしてフライ級のWBAとWBCの統一世界王者が寺地拳四郎で、IBFのフライ級とライトフライ級の二階級同時王者が矢吹正道…他にいつ世界をいつ獲ってもおかしくない世界ランカーがゴロゴロいる(大半は軽量級だが…)。

私がボクシングを見始めた60年代後半のボクサーと現在のボクサーを比較するのは難しい。70年代初頭、日本には5人の世界チャンピオンがいた。間違いなくそこは黄金時代と言えた。団体は老舗のWBAと新参のWBCの2つだけ。5人の世界王者はWBAフライ級=大場政夫、WBAフェザー級=西城正三、WBCフェザー級=柴田国明、WBAジュニアライト級=小林弘、WBCジュニアライト級=沼田義明。その時代の階級はヘビー級からフライ級まで11しかなかった。でも、今は4つの団体で18階級もある(ブリッジャー級はWBAとWBCのみ認定)。日本人の世界王者が同時に5人いた70年末の時点で、WBAとWBCが同時に認める統一世界王者はジョー・フレイジャーら5人で、それを含めて世界チャンピオンは計17人しか存在しない狭き門の権威ある大英雄たちであった。でも、現在時点における4団体の世界王者と呼ばれる選手は複数団体の統一王者を含めて56人もいる(2つは空位)。その上、世界タイトルマッチは、15ラウンド制だったが80年代に12ラウンドに変更され、また近年、当日計量から前日計量になった。そういうルール改正があるので昔の名選手と現在の名選手の実力を比べるのは困難である。あの時代、誰もが世界チャンピオンの名前を知っていたが、現在いる7人の世界王者たちの中で井上尚弥、ギリギリで中谷潤人以外に何人の名前を挙げられるだろうか。私は今の黄金時代を否定しているわけではない。比較できないと言っておいて変だが、60年間、ボクシングを観て来て井上尚弥が「史上最強」であることだけは太鼓判を押す。恐らく100年に一人…観なけば損だ。だからこれを機に今の黄金時代のボクシングを楽しんでいただきたい。

さて、私は中学生になった頃、日本プロレスの道場が何処にあるのかわからずに渋谷のエムパイヤビル(元のリキパレス)へ行ったことがある。ビルの隅に半地下みたいな所を覗くとプロレスではなくボクシングをやっていた。リキパレスを買い上げた近畿観光の小浪義明氏がリキ・ボクシングジムをミカドジムとした場所である。中で選手が練習をしていたが、ミカドジムに有名な選手はいない(元日本ウェルター級王者の亀田昭雄は共栄ジムに移籍)。ただ、ここはリフォームされてはいるが力道山、馬場、猪木らが汗を流し、ゴッチ教室も行われた由緒ある場所だ。

代官山に日本プロレスの新道場が出来たのを知ると、私は白金から自転車を走らせて行くが、オフなのに練習どころか選手一人いなかった(留守番の人はいた)。選手はいったいいつ練習しているのか、それがわからないと困る。遠いから行っても外れるとダメージが大きいし、本当に見学させてくれるかどうかもわからない(国際の道場へという選択肢は浮かばなかった)。そこで閃いてボクシングジムを巡ることにした。そのきっかけとなったのが世界フェザー級王者の“シンデレラボーイ”西城正三と世界ジュニアライト級(現在のスーパーフェザー級)王者“雑草男”小林弘のノンタイルで対決が実現すると知ったからだ(70年12月3日=日大講堂)。それは史上初の現役世界王者同士が対決するという超ドリームマッチであった。私は「試合前の数週の間にジムへ行けば必ず練習しているはずだ」と思った。“あそこが西城のジムか”…以前より山手線の車中から代々木駅付近に“共栄ボクシングジム”という看板がチラリと見えたのを記憶して、そこを目指して自転車を走らせる。白金からだと2時間弱かかったかも…。私の読みは的中する。ジムの玄関から中を覗くと、あの西城が小林戦に備えて練習していた。するとトレーナーの人が「キミ、寒いから中に入って見なさい」とジム内にいざなってくれたのだ。この人はハワイから駆け付けたスタンレー伊藤さんだった。

西城が注目を浴びたのは修行の舞台ロサンゼルス。68年6月6日に世界王者のラウル・ロハスをオリンピック・オーディトリアムでのノンタイトル戦で破る。その翌日、同じリングでミル・マスカラスがバディ・オースチンを破ってアメリカス・ヘビー級チャンピオンに輝いている。共にロスでサクセスした新時代の旗手・マスカラスと西城の情報は芳本栄カメラマンから随時もたらされた。9月27日、西城は3万人入ったオリンピック・メモリアルコロシアムでロハスとの再戦にも勝利して世界タイトルを獲得している。

日本ボクシング史において初めて海外から世界タイトルを持ち帰った男はイケメンのスーパースターで、ゴングも当時は西城さえ載せていれば売れたらしい。伊藤さんが突然私の首筋をグリグリといじると、「キミはボクサーに向いている。ボクシングをやらないか」と言われた。突然のことで戸惑う私…。将来、まだ何になろうか決めてもなかったが“観るのは好きだが、自分が殴り合うのは嫌だ”と思った。練習後、西城選手が驚いた。「えっ、白金から自転車で来たの。僕のウチと近いじゃない。僕の家は目黒なんだけど、白金寄りなんだ。今度遊びにおいでよ」。初めて会った中学生の私に人気絶頂の世界チャンピオンからまさか、まさかのありがたいお言葉。それで自宅への地図まで書いてくれた。ファイティングポーズの写真とツーショットとサインも貰って帰途につく。家に帰って父と兄にサインを見せて自慢した。ストロボが無い時代のバカ〇〇カメラなので、写真はあまりいい出来ではなかった。後日、再び共栄ジムへ行き、西城選手の練習を見学。「おおっ、また、来てくれたの?試合が終わったら今度ボウリングへ行こうか」と誘ってくれた。本当にいい人だ。その帰りに私は小林弘が所属するSB中村ジムへ寄る。すると当日は西城戦へ向けての公開スパーリングの日だったようで、ジムにはマスコミがいっぱい来ていた。

ここは恵比寿なので、自宅からは自転車で30分弱の距離。すでに西城派になっていた私が小林弘のスパーを覗いていると、なにか自分がスパイのような変な気持ちになった。だってさっきまで西城選手と一緒だったわけだし…。スパー後の囲み取材を、遠巻きに聞き耳を立てる自分がいる。ふと、その行為はスパイではなく、取材ではないかと思った。今、改めて思うと、私は誰もやらないことを好んでやる“変な子”だった…。選手になるよりも、選手を取材する道の方が面白いと思ったのに違いない。史上初日本人同士の世界チャンピオン対決の直前に両陣営のジムに足を運び、「自分は独断で取材しているんじゃないか」と感じたのだ。それは、ゴング誌のアルバイトとしてプロの世界で本物の“取材”をスタートする8年前に体験した「はじめの一歩」だった。