ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅

【第709回】最強の男の優しさ

先々週、私は息子と一緒に愛車の「ブルー・デモン号」に乗って紀伊へ旅をしました。昨年、四国八十八番の結願のお礼参りに高野山へ行くのが最大の目的。前日は奈良県橿原市から石舞台、亀石、酒舟石、キトラ古墳、高松塚古墳など飛鳥の遺跡を巡り、和歌山県橋本市で宿泊。橿原市公苑体育館は93年6月9日に、橋本市体育館は2000年2月12日に取材で行っている(前日は大阪の舞洲)。どちらも新日本だった。橿原についてはこのコラムの第528回で触れているので割愛する。橋本市の試合は新日本本隊とNWOジャパンが抗争している最中だったが、どんなカードだったか…思い出せない。

ブルー・デモン号は雪の高野山へ。

紀ノ川の中流域にある橋本市は横浜ベイスターズの筒香嘉智の出身地。高野山の七口の一つ九度山は関ヶ原後に真田昌幸・幸村親子が幽閉された地でもある。九度山麓の慈尊院は空海(弘法大師)が女人禁制の高野山から何度も降りて来て母に面会した場所で、このお寺も世界文化遺産。その慈尊院から高野山まで歩けば8時間弱。高低差は約800m。車では1時間10分かかる。オールシーズンタイヤを履いているブルー・デモン号はスノー&ダートモードへ入れて雪道をガンガン登って行く。高野山へ初めて行ったのは1992年3月で、それ以後、新崎人生との2度を含む計6度も登っている。今回が7度目になるが一度も歩いて登ったことはない(ケーブルカーは1度)。過去と今回の違いは世界遺産に登録されてガイジンさんの観光客が異常に多くなったことか。前々日からの雪で、1000mを超す高野山は真っ白。雪の高野は初めてだった。

高野山の壇上伽藍は雪景色。

丹生都比売神社、壇上伽藍、霊宝館、金剛峯寺、一の橋から奥の院(弘法大師廟)…高野山をパーフェクトに巡った後、雪のスカイラインを走って龍神温泉(田辺市)へ…すごい山奥だ。ここは「日本三大美人湯」の一つと言われるが、私には無縁の効能である。こういう“日本三大…”という謳い文句を聞くと、「じゃあ、あと二つは何処?」と気になる。調べると群馬県吾妻峡の川中温泉と島根県出雲市の湯の川温泉らしい。難易度でいうなら、ここが一番かもしれない。こんな山奥に訃報が…。プロレスラーではない。あの“怪物”ジョージ・フォアマン(76)が亡くなったことを地上波のニュースで知る。現三団体統一ヘビー級王者でパウンドフォーパウンド1位のオレクサンドル・ウシクの名前は知らなくても、フォアマンの名前ならば世界中の誰もが知っているだろう。メキシコ五輪の金メダリストで、プロ転向後に37連勝35KO。相手は無名ばかりだったから“作られた戦績”と揶揄されたが、73年1月22日のジャマイカ・キングストンで世界王座に初挑戦。あのジョー・フレジャーから6度ダウンを奪って2回TKO勝ちした時の衝撃は物凄かった。MSGでアリに初めて土を付けたハードパンチャーのフレイジャーが簡単に吹っ飛んでしまったのだから超びっくり。これは後に“キングストンの惨劇”と言われた。世の中には恐ろしい怪物がいるものだと誰も思った。

ファアマン来日。右がディック・サドラー。アテンドはNETの永里高平。

そのフォアマンが日本で初防衛戦をした。今から52年前の9月1日の日本武道館。相手はプエルトリコのジョー・キング・ローマン(ジョーではなくホセ・ローマンだった)。ファアマンは7月16日に羽田に降り立ち、翌日には武道館を視察している。プロレスの暦に当てはめると、7月9日の大阪府立でストロング小林vsラッシャー木村のIWA世界ヘビー級選手権が行われ、同月26日の東京体育館で馬場vsブッチャー、8月21日の札幌では馬場vsパット・オコーナーのPWF戦があった。その時代を知っている人なら「ああ、あの頃か」と合致するはず。新日本はオフだったから、挑戦状を持って行ったらどうだったの!? さて、ファアマンに用意されたジムは水道橋の田辺ジム。現在の東京ドームシティのある地下鉄出入口のあるちょうど角のあたりにあった古いビル。ここには日本ボクシング協会も併設していたと思う。だが、ファアマン陣営は田辺ジムを汚いからと拒絶した。古いだけでなく、同じ階にシャワーがないというのも駄目だったようだ。私もこの年12月の世界ウェルター級王者アントニオ・セルバンテス(コロンビア)が来日してライオン古山(笹崎)とタイトルマッチをやる際、公開練習の日に田辺ジムの5階にある卓球場に忍び込んで、吹き抜けからスパーリングを覗いたことがある。協会もある老舗のジムのようだが、確かに古く汚い。そこで次に提供されたのが、南麻布2丁目にあったキックボクシングの「東洋パブリックジムナジム」。ゴングの記事と広告で嗅ぎつけた私は、そこへ急行する。我が家から自転車で30分くらいか。日にちも曜日も憶えていないが、夏休みということもあって、汗を掻きながらジムを探した。小奇麗なマンション(飯笹ビル)の4階にジムがあり、中は明るくて広い。広告にあるように近代設備と80坪の広さがこのジムの売りだった。入口から中を覗くと、おおっ、いるいる!フォアマンの大きな黒い影が…。

当時、音楽を流しての練習は日本のジムでは珍しかった。

すると黒人の小太りのおっさんが私に気づく。怒られると思ったら、手招きされて「中に入って見学しなさい」と言われた。その人はプロ転向からフォアマンを育てた名伯楽ディック・サドラーだった。彼は高校2年生の私に優しく接してくれた。その日にマスコミは誰もいなくて、私は至近距離でフォアマンの練習を見ることが出来た。当時の記事を読むと、この時24歳のファアマンはタバコを吸う日本のマスコミを嫌い、スパーでリングに近づくことも嫌がってかなり神経質になっていたようだ。私みたいにジムを見学に来る小僧が珍しいらしく、時々笑顔をくれた。ジムの中にはツースピーカーのステレオからソウルミュージックが大音響で流れている。この日、スパーはなかったが、ロープスキッピング、シャドー、ミット打ちとサンドバッグ打ちをやっていた。サンドバッグを叩くと、ドカーンと音がして、押さえていたサドラーが吹き飛びそうになる。他のジムで日本人世界王者たちのサンドバッグ打ちを観たことあるが、こんな轟音と大きく揺らすのは初めて観た。凄まじいの一言…こんなパンチをモロに食ったら、どんなプロレスラーだって吹っ飛んでしまうだろうとマジで思った。

サンドバッグがブランコのように揺れ、轟音がジムに響きわたる。

約1時間半に及ぶ練習終了後、シャワーを浴びた世界最強の男と握手をする。野球のグローブみたいにデカい手だった。拳周りは亀の甲羅みたいに硬く、掌は温かかった。これで殴られたら死ぬと思った。現にこの拳でフレイジャーは白目を剥いて2メートルほど瞬間移動させている。「何歳なんだ」と聞かれたので「16です」と答えとファアマンはニッコリ笑った。色紙にサインを貰う。アメリカにはないであろう色紙を珍しいそうに見ていた。サインの後、返してもらったマジックペンを見てビックリ。えええっ、堅いペンがボッコリ陥没しているではないか。何んという握力。フォアマンは「シー・ユー・アゲイン」と言って、また出口まで見送ってくれた。あのデカい身体に怖い顔でパンチを振るうのに、一旦スイッチを切ると、とってもいい人だった。

ローマンは左右のスウィングパンチで殺されそうに…。

その後、ジムへ再訪はしなかったが、9月1日の武道館はNETの生放送を観た。ファアマンは左右の鉄腕をブンブン振り回し、ローマンは成す術もなくボロ雑巾のようになって1回2分ジャストでマットに沈んだ。ファアマンは無双だった。翌年3月、ベネズエラのカラカス…“アリの顎を砕いた男”ケン・ノートンを2回でぶっ飛ばし、KOしてみせた。恐ろしいばかりの強さだった。それが同年10月30日の“キンシャサの奇跡”に繋がるわけだ。ジムではあんなに良くしてくれたフォアマン陣営を裏切ってアリを応援している私がいた。“ジョージ、許してくれ。アリだけは別格なんだよ”。大一番でまさかの敗北を喫した24歳の「世界最強の男」は4年後に引退して牧師に転身する。ジムで私に一瞬見せてくれた優しさには聖教者になる要素が含まれていたのかもしれない。フォアマンは1987年に現役に復帰し、キンシャサから20年後に世界ヘビー級王者に返り咲いた。最後の試合は1997年11月で、その後、再び牧師に戻る。フォアマンの訃報を知った翌日、教会でなくて申し訳ないが、熊野本宮大社に参拝して、彼の冥福を併せて祈っておきました。ジョージ、52年前の思い出、ありがとう。

-ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅