ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅

【第696回】池上古今

14日の土曜日は赤穂浪士討ち入りがあった「義士祭」(高輪・泉岳寺)の日なのだが、私は有志たちとともに池上・本門寺へ行き、力道山のお墓参りをしました。15日が命日で、田中敬子さんと百田光雄さんによる法要が午前と午後にそれぞれあったはず…。それより前に私たちが露払いの意味で、お花を添え、お線香をたいて、“日本プロレスの父”に手を合させてもらったというわけです。

失礼して先生に先制チョップを。

力道山のお墓の後は周辺に点在する著名人たちの墓所を散策。ここには紀伊和歌山藩徳川家、肥後熊本藩細川家、米沢藩上杉家、讃岐高松藩松平家などの大名家、絵師の狩野一門などの古い墓石が建ち並ぶ。さらには永田雅一、溝口健二、児玉誉士夫、松本幸四郎、幸田露伴、市川雷蔵、片岡仁左衛門など、政治家、実業家、作家、映画監督、映画役者、歌舞伎役者などなど、あげたら枚挙にいとまがないほどの著名人が眠っている。児玉氏と力道山の関わりはGスピでも今までいろいろ学んでもらったと思う。映画プロデューサーで“幻の名馬”トキノミノルの馬主でもある永田雅一氏は日本プロレスリング協会発足時の相談役に名を連ねていた。上記の著名人以外には町井久之氏、東スポの太刀川恒夫元社長の太刀川家のお墓もこれらの一角にある。その中でひと際目を引くのが大野伴睦の墓所だ。初代自民党副総裁の大野伴睦は力道山を可愛がり、日本プロレス・コミッショナーにもなった人物。力道山を上から叱れる数少ない人だったという。伴睦の墓所には大きな虎の像が通る者たちを威圧している。寅年生まれで、虎に関するコレクションが2000点以上あったとか。この虎の石像は生前、自宅の庭にあったもので、子供や孫たちはこの虎に乗って遊んでいたという。伴睦は力道山を追うように翌年他界したが、墓所を作るにあたって虎の石像を家族が移したのだ。「初代タイガー」は大野伴睦だったといえる。

この虎の石像は実物大の迫力。

何度も書いているように、本門寺は清水家の菩提寺で、二代将軍・徳川秀忠の乳母が建立した関東最古の五重塔の直下に我が家の墓がある。ここには私の曽祖父、曾祖母、祖父、祖母、父、妻、そして愛犬が眠っている。私は前日の13日にもここへ来て、墓所の清掃とお花を飾って、翌日の有志たちの来訪に備えた。連日の墓参だったけど、両日とも風が冷たくて寒かった。ただ、天気が良くて、空気が澄んでいるためか、南西にある池上会館の展望台から富士山、丹沢山塊の夕景のシルエットが素晴らしかった。陽が沈んだ辺りが箱根の山々であった。

本門寺から富士山の美しい夕景。

以前にも一度書いたと思うけど、江戸時代、本門寺は江戸っ子たちの観光地だった。江戸の下町に住む庶民たちは、お弁当を手に池上を目指したという。国境(現在の県境)等に関所のあったこの時代には、他国への旅に制限があった。故に江戸っ子たちは本門寺で“近場の遠足”を楽しんだのだ。日蓮宗大本山にお参りをした後、富士山を眺めて弁当を食べるのがお決まりだったようだ。本門寺の立地は、千束から池上に向かって伸びる舌状台地の南東端にあり、標高は20数メートル。周囲は崖になっていて、ここから富士山を遠望すると、なるほど…江戸っ子たちの観光気分が理解できる。古今、日本人は富士山が大好きなのである。平屋ばかりの江戸市中からでも富士山がよく見えたようだが、「もっと近くで見たい」という気持ちは強かったはず。だから池上詣でがブームになったのだ。これ以上西への旅がかなわない江戸っ子たちの限界が本門寺だったのである。

池上競馬場を示す古地図。

池上はいわゆる門前町。駅から本門寺へ向かう参道はいかにも門前町らしい赴きを感じる。私は池上駅での集合時間の前に「池上競馬場跡」を探索していた。江戸時代から明治へ…門前町には人が集まる。1906年(明治39年)、日本政府と陸軍の支援により「東京競馬会」(JRAの前身)が池上競馬場を開設する。江戸っ子の楽しみは遠足から競馬に移る。いやいや、ここの観客は紳士、淑女に限られる高級社交場であったのだ。一周1マイル(約1600m)のコースは池上駅の南にあった。現在、遺構は何も無いが、徳持小学校の前の道がホームストレッチの直線の痕跡だと言われる。南東の徳持ポニー公園には、ここが池上競馬場であったという唯一のモニュメントが建っている。ここでは日本人の手による初めて洋式競馬が行われ、日本人による初の馬券が発売された日本近代競馬発祥の地なのである。毎年、春と秋に4日ずつ開催されていたが、競馬熱の異常な高まりによる弊害を恐れた政府が馬券発売を禁止し、3年に廃場。その機能は目黒競馬場(1907~1933年 東京競馬場の前身)に移った。

正面の直線コースはここにあった。

大田区の娯楽は競馬からプロレスへ…。1936年(昭和11年)に出来た田園テニス倶楽部。そのメインスタンド(田園読売スタンド)は後に田園コロシアムと改称される。そこで力道山が1959年8月にミスター・アトミックとインターナショナル選手権を行い、以後、ここでは幾多の名勝負が繰り広げられたのは周知の通り。力道山死後、1965年からは大田区体育館が使われるようになり、ファンクス初登場や新日本旗揚げなど重要局面で使用された。本門寺から区体育館へ、田コロへ4~5キロの距離。大田区は日本のプロレス界にとって歴史の詰まった重要な区域であることに改めて気づかされる。大田区体育館も、田コロも、私にとっていろんな思い出の詰まった会場だが、青春時代に大田区上池台に住んでいたシッシーことアナクラ氏にとっても、その2つは思い出の多い会場のはずだ。どんな思い出か…23日(月)のGスピリッツVol.74に何か書いてあるか、29日(日)のトークショーで大田区の何かが語られるかもしれない…。

-ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅