ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅

【第688回】幻の陸中プロレス(1)

岩手県遠野市にて3日連続で名物の遠野ジンギスカンを食べた私は、新鮮な魚介類を求めて陸中海岸へ出る。これまでにみちのくプロレスで釜石に1度、新日本プロレスで気仙沼(宮城県)に行っているけど、三陸海岸を南北通して走ったことは一度もない。それを以前からやろうとしていたら東日本大震災が起きて、さらに足が遠ざかってしまった。今回はその被災地の今を目に焼き付けておこうと三陸へと向かった。最初に向かったのは釜石。次が大槌、そして宮古へと北上する。何処の町も大きな防潮堤が出来ているが、未だに家々がまばらだ。俯瞰すると悲惨な津波の様子が想像させられ、心も足も震える。さらにかなりの高地にも「ここまで津波が到達しました」という表示が各所に設置されていた。その表示板を見るたびに、「えっ、ここまで来たの!?」と驚かされる。

大槌城から大槌町と小槌川水門を望む。

私は小学校の頃、「岩手は日本のチベットです」と習った。この日本一大きい県・岩手は未開の地であるという形容なのだろうが、あまりに酷い例えだと思う。チベットという言い方は別にして、地理的にとても不便な所という意味では納得する部分がある。盛岡、花巻、水沢、一関など北上川沿いの内陸都市の流通は良いが、山深い北上高地を挟んだ陸中海岸沿いの町は他地区よりも鉄道の開通も遅れて僻地扱いされてきた。それはプロレスの興行も同じである。恐らく力道山時代には陸中には巡業していないはず…。初見は1968年9月1日、『第2次サマー・シリーズ』第13戦の大船渡市電電横広場。メインは馬場&猪木&大木vsヘイスタック・カルホーン&マンマウンテン・カノン&ボブ・アームストロング。主催者発表は7000人…同シリーズ中4位の入り。日々漁船しか見ていないお客たちは「人間空母」登場に度肝を抜かしたことであろう。日プロの次は70年7月7日、釜石市昭和園グランドだから2年間の空白がある。ムース・ショーラック&ブルート・バーナード&ジャック・アームストロングvs馬場&坂口&ヒライがメインで、セミは猪木vsレジー・パークスだった。

ユイちゃんが「アイドルさ、なりたい」と叫んだ駅

その2年の空白期間に陸中海岸を密かにホームにしてしまったのが国際プロレスだ。69年の『ワールド選抜シリーズ』。4月26日が釜石市中島特設リング、27日が宮古市小学校体育館、28日が久慈市体育館…ビル・ロビンソンはもちろん、我らがドリー・ディクソンも私より先にこの陸中海岸コースを北上しているではないか。このシリーズに若手として同行した井上円蔵ことマイティさんは言う。「名前は忘れましたけど遠野に面白いおっさんがいて、その人がこの周辺のプロモーターをしてくれたんですよ」。国際はこの後も70年8月1日には大船渡市青果市場前広場があって、あのエドワード・カーペンティアも来ている。「そこで黒潮太郎と戦ったのを憶えていますよ。俺が大剛さんと、黒潮はジャック・クレインボーンとだったかな。もともと国際は岩手に強かったですからね。盛岡を中心にしてTBSのネットが強かったという背景もあると思いますよ。営業もプロモーターも強かった」(マイティ)。72年は7月2日が久慈、3日が大槌町高校という南下コースを取った。三陸縦貫鉄道がまだ全線開通していない時代にこれが出来たのは、国際が移動バスを持っていたからであろう。この年の7月11日、日プロは宮古ボウル前広場で『第2次ゴールデンシリーズ』の最終戦をしている。北海道と東北だけを回る短期シリーズとはいえ、こんな所で最終戦をしなくてもいいのにと思う。メインは馬場&大木vsムース・ショーラック&ロン・ミラー。セミがコワルスキーvs小鹿。“大鹿”ショーラックは陸中に2度来たことになる。9月26日は大船渡の青果市場。すでに馬場が離脱している『第3回NWAタッグリーグ戦』の第2戦。公式戦はハミルトン兄弟vsヒライ&永源、メインは坂口&大木vsフリッツ・フォン・ゲーリング&ネルソン・ロイヤル。うーん、どうでもいいって感じだね。この年に旗揚げした新日本は5月の盛岡市体育館で大コケしたので、水沢以外、岩手に近づいていない。ましてや三陸進出などもっと危険であったであろう。

北三陸鉄道ではなく三陸鉄道リアス線です。

次の73年。この年、国際の日程に三陸海岸沿いの興行は記録として残ってない。しかし、国際はちゃんと興行をしていた。これがマスコミも来ない、記録も残っていない幻の『合宿シリーズ』(仮称)である。前年は富士山麓の朝霧高原で合宿した国際は7月18日から社員全員で神津島において合宿している。これにはマスコミも同行する。ただ、これはカモフラージュで、マスコミに内緒の合宿第2弾が決行されたのだ。期間の恐らく8月17日~23日。これに米国から帰国したばかりの大位山(松本勝三)が参加している。「営業も絡んでいるから事前に計画されていたと思います。外国人選手はゼロで強行したんです。と言っても稲妻は黒人だからガイジン扱いで、僕もマスクを被ってミスターXと名乗りました。レフェリーの阿部さんもマスク被ってガイジン側でした。吉原社長もミスター珍さんと毎日試合していましたよ。僕は毎日メインで、小林さんや木村さんと試合していました。全員が陸前山田の民宿に泊まって、そこをベースにして宮古、大槌、田老、陸前山田あたりを数戦回りました。全部野外だったと思います。津波の被害にあった場所ばかりですよ…。吉原社長に聞いたら1興行100万円で売ったらしい。これが入って儲かったんですよ。ギャラ以外に5万円のボーナスも出たね。最後は盛岡の岩手県営でやったと思います」。20年後に多くのインディーを観て来た者からすれば何をやっても不思議ではないのだが、大手民放のTBSがバックに付いている団体が小遣い稼ぎで、密かにミニシリーズをやったわけだから驚きというしかない。それも社長が率先していやっていることが笑える。その陰には「僻地の陸中ならば、東京のマスコミにも嗅ぎつけられないだろう」という思惑が働いたはずだ。「国際だから何をやってもいい」という風潮は、この辺から始まったことなのかもしれない。7年後、これも幻といわれた『第2次ビッグ・サマー・シリーズ』の発想へと繋がるわけである。一部マスコミに発表された日程のトップにあったのは西根町民体育館(80年8月1日)。西根町(現・八幡平市)は陸中ではないが岩手県下の小さな町であった。大位山さんの話を思い出し、『合宿シリーズ』のことを空想しながら陸中のリアス海岸を眺める私でした…。

あと10日です。

-ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅