ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅

【第679回】遠い真夏のミステリー(1)

毎日、猛暑である(取材と買い物以外は家を出ない)。少年時代、夏休みの日記を付けていた時、最高気温は32度が一番高くて、それもひと夏で数日だったと記憶する。それが35度以上は当たり前の日がずっと続いている。異常としか言いようがない。まだ英語を習っていない小学校の頃、いち早く夏が「サマー」だと知ったのは『サマーランド』が八王子に出来た1967年だろうか。東洋初の屋内の波の出るプールが売り物で、行きたかったが遠かった。しかたなく豊島園の波の出るプールで我慢する。後に84年、『シシ・アカプルコ』というリゾート施設の波の出るプールで、容赦ない巨大波の連続に溺れそうになったことがある(メキシコのプールは安全無視だった)。私の目につく範囲で『サマーランド』より先にサマーを謳ったのが65年の日本プロレス『サマー・シリーズ』だろうか。ミスター・ダイヤモンド、ジョニー・ケイス、デューク・ホワードが来たどうでもいい捨てシリーズ。力道山時代はサマーではなく『プロレス夏の国際試合』とか『夏の選抜試合』などという名称だった。力道山死後の64年は『プロレス夏の陣』。66年から『サマー・シリーズ』は第1次と第2次に分かれる。とはいえ、この年の第1次も第2次もワールドリーグから秋の陣『ダイヤモンド・シリーズ』に繋ぐためのこじんまりしたシリーズの連続でしかなかった。

1959年8月7日、田コロのポスター。

最近ではあまり言われなくなった「二八(にっぱち)」という言葉…それは2月と8月は商売が低調になることを意味する。プロレスのシリーズもそれに従って組まれた感がある。力道山が8月に核となるインター選手権をやったのは59年のvsミスター・アトミックのみ(田園コロシアム)。2月はというと、シャープ兄弟が来た54年こそ2月だが、力道山の2月のインター戦は一度もなく、66年の馬場vsルー・テーズまで下らないと行われていない(65年の豊登vsデストロイヤーのWWA世界戦は2月)。8月のほうに話を戻すと、国際は71年から79年まで8月にシリーズを組んでいない。それはかつて日プロの営業部長だった吉原社長の意向か(例外は71年が2日間、77年に7日間だけ8月に食い込む)。8月のオフ、国際は合宿をして飲んでいた。『サマー・シリーズ』が最も陽の目を見たのが67年の第1次であろう。ご存知のようにNWA世界ヘビー級王者のジン・キニスキーが特参したからである。田園コロシアムと大阪球場での2戦は野外だったからこそ、いいコンディションで戦えたのかもしれない。これは世界王者のスケジュール在りきの8月開催だった。同14日、大阪球場から何百メートルも離れていない大阪府立体育会館では国際プロレスが興行を打っており、客入りは2500人と極少。テレビの照明も無かったわけだけど、府立は恐ろしい暑さだったであろう。この両団体初の接近戦は『大阪夏の陣』と呼ばれた。慶長20年(1615年)に大阪城で行われた徳川vs豊臣の最終決戦をもじったもの。結果、馬場が大御所・家康で、キニスキーは舶来の大筒、吉原さんは無抵抗の秀頼だったのか…(かなり苦しいこじつけ)。

馬場vsキニスキー、大阪球場は2万人。

私の一番好きな『サマー・シリーズ』は翌年68年の第1次。後半にブルーノ・サンマルチノが来て大阪球場(8月7日=6日の予定が大雨で1日順延)で馬場とインター戦をやるけれど、そのシリーズで私が惹かれたのは“骸骨男”スカル・マーフィーと“金髪の爆撃機”レイ・スティーブンスのコンビであった。怪奇じみたマーフィーの表情と「そんなことしたら死んじゃうよ」と叫びたくなる窒息クロー、やられっぷりが絶妙のスティーブンスの汗と血に濡れた金髪…「夏のプロレス」というと最初に浮かぶのは彼らの狂乱ファイトである。残念だったのはBIに彼らが挑戦した札幌のインター・タッグが放送されなかったことだ。記憶によると、テレビやってなかったと思う…。

骸骨男と人非人がアジア・タッグ奪取。

このシリーズで一番のダークホースがクロンダイク・ビルだろう。櫻井さんが名付けたのか、今や禁句とされている“人非人”というキャッチフレーズを持つ野獣タイプ。力道山には63年2月1日のリキパレスでコテンコテンにのされた男(ミスター・ブルート=たぶん、人気漫画ポパイの天敵ブルートから、そう名乗らされたのだろう)。それが5年で大成長して再来日。クロンダイクとはカナダとアラスカの境をなす地域で、ユーコン・エリックに似たリングネームの付け方で、恐らく木こりか砂金取りの荒くれ者のキャラなのだろう。東京スタジアムでマーフィーと組んで吉村&大木とアジア・タッグを奪った。この試合で吉村は大流血(大出血のが正しいかも)の上に腰を負傷して数日間欠場することになる。吉村さんの流血はホラーに近い…。さらにクロンダイク・ビルは旭川市体育館(7月26日)で馬場とのシングル戦で、32文を自爆させてフライング・ボディプレスでピンフォールするという大金星を挙げたのだ(これは馬場がカマタに負けた時の十倍以上の驚き)。8月2日、仙台の馬場vsブルーノの前哨戦の、それまた前哨戦であったとはいえ、ボボ・ブラジルからインター王座を奪回したばかりの馬場がこれほどまであっさり伏兵にフォール負けするとは…この時代のプロレスではなかなか起きない番狂わせだった。ミル・マスカラスが夏の風物詩と言われるのは、ずっと先、全日本時代のこと。71年、マスカラス2度目の来日が初めての夏で、スポイラーやインフェルノスらマスクマンがいっぱい来るので『サマー・ミステリー・シリーズ』と付けられた。ナイスなネーミングと思ったけど、この68年の『第1次サマー・シリーズ』のほうがよっぽどミステリーだったよ。今から56年の前の遠い夏である。

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