先週はハヤブサの故郷・八代へ行った話を書いた。調べてみると、八代市総合体育館ができる以前、プロレスは魚市場で、さらにそれ以前は野上市営球場で行われていたことがわかった。
さて私はその後、八代から日本三大急流の球磨川を遡り、人吉市へ向かった。途中でちょっと観光……球泉洞という九州最大の鍾乳洞へ寄る。自称・トマス観光(実態は“トマス観光をしない観光”)の私は、鍾乳洞にだけは目がない。カベルナリオ(洞窟男)でもある私は、かなりの鍾乳洞マニアで、これまで全国各地の鍾乳洞を探検してきた。近年では滝観洞(岩手)や平尾台の千仏鍾乳洞(福岡)に入っている。ヘルメット着用で突入……球泉洞はなかなか素晴らしかったですよ。

さて、急流を遡ると広がる盆地……人吉へ行くのは1994年以来なので32年ぶりである。6年前の7月、400ミリを超える豪雨で球磨川が氾濫し、橋が落ち、市街地が水没するなど甚大な被害を受けた記憶は新しい。八代~人吉間でSLも走らせていた肥薩線は壊滅的な被害を受けた。確かにその爪痕はあちこちで見受けられた。廃線の話まで出ていたが、一昨年、復旧の方向で合意したようだ。しかし肥薩線の全面復旧は2033年頃というから、まだまだ先の話である。
人吉は美しい城下町である。町の中心を流れる球磨川の対岸、河岸段丘の上には人吉城が鎮座する。

ここは相良(さがら)氏が代々治めた平山城である。相良氏はもともと静岡県の牧之原市相良町付近にいた御家人で、源頼朝による平家討伐の後、この人吉の地頭に任ぜられた。初代当主は相良長頼。相良氏は戦国期に八代や佐敷などにも進出し肥後南部を制圧するも、九州制覇を狙う薩摩の島津氏が北上してきたため服属した。その後、秀吉の九州征伐の際に降伏し、旧領の人吉のみの領地に戻された。
相良氏は江戸時代も人吉藩主として続き、幕末に至る。領地替えもなく670年間、37代続いた全国的にも稀な名家と言っていい。明治維新後には華族の子爵に列せられたという。なぜここまで詳しく書くかというと、勘のいい人ならもうお気づきだろうが、相良家はあのアントニオ猪木の母方の血筋なのである。

実弟の猪木啓介さんにお聞きする。
「私たちの母は相良家のお姫様なんです。母は“時代が時代なら、お父さん(猪木佐次郎氏)と一緒になるような家柄ではありません”と言っていましたよ。外出の際には人力車での送り迎えがあり、門から玄関までとても遠い豪邸で暮らしていたらしいですよ」
猪木さんの品の良さは、大名家の母方から来ているのだろう。人吉盆地から海を求めて南肥後へ版図を広げていった相良家は、政略結婚を含めて670年にわたって良血が重ねられてきた。猪木さんの母系は、まさにサラブレッドだったと言える。
ちなみに父系、猪木家の方はというと、以前にも触れた鹿児島県出水市が発祥である。ここは戦国期、相良氏やその後の佐々成正、加藤清正ら肥後との国境防衛拠点だっただけに、特に戦闘的な武士集団がいた地域である。今も武家屋敷が残る出水……アントニオ猪木の闘魂は、屈強な薩摩武士の血に由来するのだろう。あの濃い顔立ちも薩摩人と思えば納得できる。
啓介さん曰く、
「でも兄貴は母親似、相良の顔つきですよ(笑)。それから出水には、今も猪木姓の遠縁の方が数人住んでいます」
“ファミリーヒストリー”ではないが、出水の猪木さんにも会ってみたいものである。

さて、32年ぶりに人吉城に登り町を眺めた後、私は市内の願成寺町にある相良氏の墓地へ足を運んだ。願成寺は相良氏の菩提寺であり、その裏手には鎌倉時代の初代から明治に至るまで、歴代当主の墓が集められた壮大な大名家墓所がある。私も全国津々浦々、さまざまな大名家の墓所を訪ねてきたが、これほどのスケールはなかなかない。

これほど多くの墓があると、どこを見てよいのかわからない。私はまず中央に鎮座する初代当主・相良三郎長頼の墓に手を合わせ、5ブロックに分かれた墓所を順に巡り、最後の37代当主・相良頼綱の墓に至った。
この方が猪木さんの母の祖父、あるいは曽祖父にあたるのだろうか……。墓標には「昭和四十一年十二月十九日逝 享年九十一歳」とあった。偶然だがその日、アントニオ猪木は東京プロレス『チャンピオン・シリーズ』最終戦、東京体育館でスタン・スタジャックを相手にUSヘビー級の防衛戦を行っている。

この時、猪木さんは23歳。相良頼綱が91歳なら、この方が祖父で、母・文子さんの父なのか……? いや、文子さんの父は相良寿郎氏である。1957年、猪木一家がブラジルへ渡航する際、パナマ付近で亡くなり水葬されたという話は有名だ。享年77歳。逆算すると寿郎氏は1880年生まれであり、頼綱公(1875年生まれ)とは5歳違い。兄弟だったのだろうか。
しかし啓介さんによれば、寿郎氏は文子さんの母の家に他家から婿入りし、相良姓を名乗ったという。それならば猪木寛至の祖母(文子さんの母)が頼綱公の実妹だった可能性が高い。ここは改めて啓介さんに詳しく聞きたいところだ。
鶴見の猪木家の中で、寿郎氏の流れである相良家には娘しかいなかったため、文子さんの三男・寿一氏が養子となり、相良姓を継いで家名を存続させた。もし六男の寛至少年が養子となっていれば、アントニオ相良となり、会場には“サガラ・ボンバイエ”が鳴り響いていたかもしれない。

この相良氏墓所の一角で、興味深いものを発見した。石田三成の墓である。関ヶ原の合戦後、京の六条河原で斬首された三成の墓は京都北区の三玄院(非公開)や高野山奥の院にあるが、まさか熊本の奥地にもあるとは知らなかった。
説明によれば、相良氏は関ヶ原の際、薩摩と同様に西軍に属し、美濃の大垣城を守備していた。しかし東軍勝利後に包囲されると、相良長毎は徳川方に投降し、一転して攻め手に回る。その功により、家康から人吉の支配を安堵された。
とはいえ、この裏切りを悔いた相良氏は、西軍主将格・石田三成と、大垣城で討ち死にした5名の小大名の三十三回忌に供養墓を建立した。それがこの六基の石碑である。こんな場所で大好きな三成に出会えるとは……テンションが上がった。

さて、アントニオ猪木は母の故郷・人吉で試合をしているのだろうか。ある。1968年10月20日、日本プロレス『ダイヤモンド・シリーズ』第23戦、人吉市文化センター。メインで馬場と組み、キラー・カール・コックス&カール・カールソンと対戦。最後はコブラツイストでカールソンからギブアップを奪い、2-0の勝利を収めている。
新日本プロレスになってからも、1973年3月10日には免田町(現あさぎり町)でエリック・ザ・アニマルを破っている。この免田は相良氏の旧領で、人吉から西へ約20キロの町だ。1977年1月18日にも人吉で試合があったが、猪木は欠場。4日前の九電体育館でのスタン・ハンセン戦で頸椎を捻挫したためである。
しかしその3年後、1980年7月21日に再び人吉へ。カードは猪木&S・小林&星野 vs 上田&アレン&キース・ハート。さらに1984年9月8日にも来訪し、メインは猪木&坂口&木村 vs 長州&谷津&栗栖(邦昭)であった。
これらの機会に猪木さんは相良家の墓所を訪れただろうか。当時、人吉の人々は猪木と相良家の関係をどの程度知っていたのだろうか。もしアントニオ猪木がアントニオ相良だったなら、“殿様が帰ってきた”と大歓迎されていたかもしれない。

墓所の近くには相良藩願成寺温泉という、源泉かけ流しの小さな共同浴場があった。大人200円。私はそのレトロな雰囲気が気に入り、2日続けて通った。
それにしても鎌倉時代から840年、今なお地元に愛され続けている相良氏の存在には心を打たれる。その誇り高き名家の血がアントニオ猪木の中に流れていたと思うと、感慨もひとしおである。32年ぶりの人吉再訪は、実に有意義な時間であった。