ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅

【第752回】ハヤブサ不知火

Gスピリッツの最新号はお読みになられましたか。まだの方は是非、お求めの上、読破してください。ということで、発売日前に私はブルー・デモン号と一緒に3000キロに及ぶ九州の旅を終え、先週帰京した。今回は主に熊本県を中心に、毎日木こりのように山に入っていた。前回のコラムは大牟田からの報告だったはず。あの翌日はやはり大雨で、仕方なく予定になかった世界文化遺産の三池炭鉱の万田坑、宮原坑を見学。私は前回「日本のウィガン」と書いたが、まさにその通りで、明治期にイギリスの技術者が来て炭鉱施設を設計・建造したという。知らない時代の知らない遺構を見学できて、有意義な休日であった。今回の旅では熊本市には入らなかった。アポロ菅原さんの『apolloキッチン』に寄りたかったのだが……残念(また別の機会に)。

万田坑は全ての施設がイギリス式だった。

大牟田の後は荒尾市、南関町、甲佐町を経て八代市に入った。八代といえば八代亜紀の故郷。そして石田えりや永島瑛子といった色気のある女優も八代出身だ。一方で麻原彰晃も八代だったはず。そして何よりも、今は亡きハヤブサ(江崎英治)の出身地である。熊本商科大学在学中に学生プロレスをやっていて、長崎から来た同級生のミスター雁之助とともにプロを目指したという。「よく八代城の中に入って、空き地で雁之助と一緒に練習しましたよ」。ということで八代城内へ行ってみた。城内には1984年に出来た相撲場があったが、どのあたりで練習していたのかは分からなかった。まさか、この土俵でやっていたわけではないよなあ……。

八代城内の南東の隅にある相撲場。

ハヤブサとの思い出は多い。93年にメキシコへ修行に行く前、彼は私を訪ねてゴング編集部へやって来た。生意気にも私は、メキシコで成功するための心得や注意点などを彼に言い聞かせた。生真面目なハヤブサはそれをメモしていた。94年4月の『スーパーJカップ』で一時帰国した時は見違えるように成長していた。「清水さん、メキシコは最高ですよ。覚えることがいっぱいあって、毎日が楽しくて仕方ないです」と目を輝かせた。彼は空中殺法のことを「飛び道具」と呼ぶ。「まだ誰もやったことのない飛び道具を日々研究しています」。彼は学プロ出身であることに引け目を持たず、堂々としていた。

メキシコで暴れ回ったハヤブサ。

学プロ出身のテリー・ボーイが新日本vsみちのくの対抗戦タッグに出た時……それを観ていたヤングライオンたち数人が花道で「ああああっ、学プロと遂にウチが交わっちゃった」と嘆く声を上げているのを、私は傍で聞いていた。私は首を傾げた。「あなたたちと彼にどんな違いがあるのか?」と。私は他競技からプロレスに転向してくる選手よりも、レベルの高い学プロ出身選手を評価していた。ファンクラブ出身のプロレスマスコミが、他スポーツ担当から回されてきた新聞記者よりもプロレスへの愛情と研究心が深い……という理屈と同じである。レベルの高い学プロ出身者は、いわば甲子園球児のようなものだ。若い時からプロレスを見て研究し、形からでも実際に動いて体得している。こうした学生の方が体力さえつけば、プロになる際の吸収は早いはずだ。現役を引退したばかりの棚橋社長が「100年に一度の逸材」と言われたのも、ベースに熱心な学プロ経験があったからではないかと思う。ハヤブサの研究熱心さも、そうした学生時代、いやそれ以前からの資質だったのだろうか。

メキシコから帰国してFMWに定着してしばらくしたある日、ハヤブサが私にこう言った。「清水さん、僕、そろそろマスクを脱ごうと思うんですが、どう思います?」と……。私は「君はまだ若いから、若いうちは子供に夢を与えるためにも被り続けたほうがいいと思う。せっかくハヤブサとして歴史を作ってきたのだから、それは大事にすべきだ。でも、もし脱ぐならドラマチックに演出すべきだと思う。今はまだ早いよ」と伝えた。彼は「なるほど。そうですね」と頷き、何か吹っ切れたような笑顔を見せた。その顔が今も心に残っている。

八代市総合体育館は朝早くては入れなかった。


さて八代で泊まった翌朝、私は突然ひらめいた。「ああ、八代の体育館へ行かなくちゃ」と……。緑町にある八代市総合体育館は、現在「八代トヨオカ地建アリーナ」という名称になっていた。定礎には1981年12月とある。市の説明では83年4月1日開館とあるが、どちらが正しいのかは分からない。いずれにしても昭和製とはいえ比較的新しい体育館である。

おそらくプロレスの最初の興行は85年5月21日のUWF『格闘技オリンピア』ではないかと思う。メインはスーパー・タイガー&藤原vsジョー・ソルコフ&ミッシェル・シュナイダー。江崎少年は佐山を観たさに会場に来ていただろうか(前田は欠場)。次が全日本の86年1月15日『ニューイヤーウォーズ・スーパーバトル』第14戦。ハヤブサが後に大変お世話になる馬場は、天龍&石川と組んで木村&原&鶴見とメインで対戦。セミ前にはマスカラス(vs渕正信)も出場しており、17歳の江崎少年は間違いなく観に行っているはずだ。さらに三沢タイガーはマイティと組んで保永&栗栖と対戦している(全日本は同年10月11日にも再びここを訪れている)。

新日本は同年5月24日『86 IWGPチャンピオン・シリーズ』第8戦が最初。メインは猪木&木村健吾&上田vsアンドレ&マードック&マスクド・スーパースター。セミが藤波vsキューバン・アサシン。8年後に両国で戦うことになるライガーは、まだ山田恵一で第2試合だった。ちなみに第1試合では片山明がここでデビューしている(vs佐野)。

94年11月に八代にエストレージャが大集合。

私はこの体育館に一度だけ取材で来ている。それは94年11月16日の新日本『AAAルチャ・ワールド』。メキシコAAAから13選手の大選手団を招いて開催したミニシリーズで、その開幕戦が何とこの体育館だった。AAAは旗揚げ2年目ながら、メキシコとアメリカで大ブレイクし、老舗CMLLを圧倒する勢いがあった。それに目を付けて大量招聘に奔走したのがネコちゃん(ブラック・キャット)である。

ライガーが負傷欠場だったため、みちのくからサスケと浜田が助っ人参戦。前座4試合は中西vs高岩、小島vs大谷、安田vs永田、野上&飯塚vsヒロ斎藤&保永で固められた。続いてオクタゴンシート&マスカリータ・サグラーダvsミニ・ブラック・キャット&ジェリート・エストラーダ。これは新日本初のミゼット戦であった。

シコシスが来たのにミステリオが…。

その後にペロ・アグアヨvs浜田のシングル、セミがイホ・デル・サント&マスカラ・サグラーダ&エル・メヒカーノvsワイルド・ペガサス&ブラック・タイガー(エディ・ゲレロ)&ブラック・キャット。そしてメインがグレート・サスケ&エル・サムライ&シコシスvsコナン&ラ・パルカ&ブルー・パンテルの6人タッグ。実に豪華な顔ぶれである。

私は2カ月ほど前、ブッカーのネコちゃんに「レイ・ミステリオを入れてくれ。できればエル・ボラドールとミステリオッソも」とリクエストしたが、「ミステリオは小さいからダメだよ」と却下されてしまった。あの時、ミステリオを見せられていたならば……と残念でならない。

ネコちゃんが骨を折って実現させた企画だったが、与えられたのは地方5会場(八代、佐世保、広島、山口、博多)のみ。ユニバやみちのく、CMLL JAPANでルチャの土壌ができていた首都圏での開催はゼロだった。もしこれを後楽園ホールで行っていれば大ブレイクは間違いなく、継続開催も可能だっただろう。これだけのメンバーを揃えながら、この扱いはあまりにも惜しい話であった。

凄いメンバー。でも、随分亡くなってしまったなあ。

団体こそ違えど、これは現在の『ファンタスティカ・マニア』の前身と言っていい。この時の教訓は、現在のシリーズにしっかり活かされているはずだ。あの夜の八代の体育館は、入りこそそこそこだったが、派手なマスクや飛び技にも観客の反応は薄かった。もしこの故郷・八代に、メキシコ修行中のハヤブサが凱旋していたならば――そんな“幻の不知火”を私は思い浮かべていた。

古麓城から観た八代市街と不知火海。

私は総合体育館を後にし、町外れにある旧八代城、通称・古麓城へと登った。標高141メートル。南北朝期に名和氏が築いた山城である。戦国期には人吉の相良氏が攻略し、その後は薩摩の島津氏に従属。そして豊臣秀吉の九州征伐の際、秀吉はこの古麓城に4日間滞在し、宣教師ルイス・フロイスと謁見している。

本丸からは八代市街を見下ろす絶景が広がる。遠くには八代海(不知火海)が青く光っていた。「不知火」とは、八代海や有明海に現れる屈折光学現象で、かつては妖怪の類として恐れられていたものだ。

“丸藤のあの技、何で不知火っていうんだろうな。不知火って熊本なのに……彼は埼玉だろ!?”

その時、スマホが突然鳴った。画面には「マノ・ネグラ」の名前。“えっ”と慌てて出る。

「トマス、元気かい。俺とモグールで今度日本に旅行に行こうと思ってるんだ。試合じゃなくて個人旅行だよ。パンテーラに聞いたんだけど、日本でファンイベントとかできるのかい?」

円安の昨今、こういう外国人レスラーは珍しくない。

「イベント?できなくはないけど、いつ来るの?具体的な日程を教えてよ」

「それがまだ決まってないんだけどさ」

「今は旅行中だから、来週横浜に戻る。また連絡して」

そう言って電話を切った。

どうなるにせよ、AAA来襲から32年――八代が再びメヒコとつながった瞬間だった。来る者は拒まず、だが結果は未知数。メキシコ人の話は半分で聞くべきだが、本当に来るなら手助けはしたい。

そう思いながら、私は八代を後にし、人吉へと向かった。来週もこの旅の続きを――。

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