先週の金曜日は後楽園ホールで『ジャイアント馬場没25年追善大会』へ行って来た。試合前に行われた追悼セレモニーが圧巻だった。馬場さんと元子さんのハワイ撮影の大パネルと16文シューズを中央に、全日本プロレスのOBである天龍源一郎、ザ・グレート・カブキ、グレート小鹿、百田光雄、タイガー戸口、渕正信、越中詩郎、太陽ケア、嵐、大森隆男、北原光騎、本田多門、浅子覚、大仁田厚、川田利明、田上明、小橋建太、太陽ケア、秋山準、丸藤正道、井上雅央…が全員お揃いの復刻ジャージを着ての入場。よくぞ、ここまで集めたなあと感心…。たくさんの所属選手が亡くなった。でも、ここに集うメンバーを見て改めて「馬場全日本」はすごい団体だったなあと思い知らされた。もう少し長生きしていてくれれば…この中にマイティさんがいてくれればなあと思った。今度、西へ行った時は馬場さんと井上さんのお墓参りをしたいと思う。


さて、先週はファイティングポーズの写真について書いた。今回はそのパート2。馬場さんは両手を広げて自分をより大きく見せるための工夫をしたようだ。アメリカへ行って自分のキャラクターがわかったからだろう。力道山は自分の上半身の筋肉を強調したり、笑顔を見せたり、表現力が豊かでポーズに華があった。日本人選手は総じてポーズがヘタだ。シャイな国民性だからか、自然体が美徳と思ってか、腕を組んだり、胸を張って両拳を腰に付けたりするのが精々。プロレスは魅せてナンボのスポーツなのに、日本人はリング上と同様に表現力と個性に乏しい。UWFの時代になると、ボクサーでもないのに両拳で顔面をガードするポーズを取る。おい、何か違うだろって思った。グーは反則だよ。レスリングは組むことが基本なので、パーであるべきだ。そこを行くとアントニオ猪木のポーズは洗練されていた。若い頃はキラー・コワルスキーに憧れてやや腰を落として両手を広げて構えた。その後のポーズも手の位置を上下変えたり、左をパーで付き出して右手は拳を握り「来るなら来てみろ!」という表情。ナックルパートをチラつかしたり…。リング上と同様に表現力があるから出来るポーズの数々だ。



日本プロレス時代の選手たちは、チャンピオンになった時や海外武者修行に出る前に浅草のマルベル堂でスタジオ撮影をしていたようだ。長い下積みを続けて来た若手選手たちにとって上司から「マルベル堂へ行って来い」と言われるのは憧れのアメリカ行きのチケットを掴んだ証であった。そこで先輩から譲ってもらった田吾作タイツや法被を着て、高下駄を履いてポーズを取る。その写真は最初の遠征地のプロモーターに送られるのである。これは日本に来る外国人も、海外へ出る日本人も同様なのだが、業務用の就労ビザを申請するにも、そうしたお仕事の写真が大事な資料になるようだ。そして本人はその写真を焼き増しして持っていて、テリトリーから次のテリトリーへ移る時に先方のプロモーターにあらかじめ送る。それによって現地での早めの宣伝が可能になる。ということで、レスラーからプロモーターへ、プロモーターからプロモーターへ、ポーズ写真は行き来し、自然と事務所にストックされるようになる。1981年夏に崩壊した国際プロレス、その秋に事務所をクローズする際に我々(ゴング)は、それらの写真や資料類、チャンピオンベルト等を貰い受けることになり、ワゴン車をチャーターして高田馬場へ行ったのを思い出す。それらの写真はヨーロッパ、カナダ、アメリカ、メキシコ、カリブ諸島、オセアニアなど世界各地から届いた貴重なもの。そしてゴング編集部に引っ越しして棚に改めてファイリングされる。それらがその後、どれだけ活用できたかは記憶にないが、あの時に廃棄処分されるより長生きできて良かったと思う。

同様に80年代以降、アメリカ全土の各テリトリーの事務所が閉鎖されたが、そこでは多くの写真資料が処分されたはずだ。79年1月に訪れたことのあるヒューストンのポール・ボーシュの事務所は歴史的に貴重な写真を額装して部屋の壁の全面に飾っていた。まるでプロレス博物館みたいだったけど、マニアに手を落ちたという噂を耳にしたこともあるけど、実際のところそれらの行方はどうしちゃったんだろうなあ…。