ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅

【第749回】美しき王位継承

 先日、人に会うために都営三田線の水道橋駅から地上に出てJR駅へ向かおうとしたら、目の前を6人くらいの外国人の一団が横切った。瞬間、メヒカーノだ!と思った。見た目や耳に入ったスペイン語から咄嗟にそう感じたのだ。すると、その中の一人の男が私の視線を感じて手を振ってきた。

「誰だっけ?」

……それが『ファンタスティカマニア』に来日しているルチャドールたちであることはすぐにわかったが、誰が誰だかわからない。私の顔を知っているならば、一昨年のコリセオの控室前で「先日、トラスカラの貴方のレストランまで行ったんだよ」と話したテンプラリオかもしれない。昨秋のメキシコツアーのオプションでアレナ・メヒコのヒムナシオを見学した時に、スペシャルゲストで来てくれたのもテンプラリオだった。近年、マスコミといえどもアレナで選手たちと接点を持つことができない。そのため、なかなか素顔で会って語らうチャンスが少なくなったこともある。すると、その集団の先頭を歩いていた男がこちらを振り向いて叫んだ。

「おおっ、トマス!」

と駆け寄り、ハグをしてきたのである。アトランティスであった。これ、まったくの偶然……。

いつもどこでも仲良し親子。(ニョーヨークにて)

彼らはスタバのオープンカフェでコーヒーを飲みながら休憩。アトランティスは、そこにいた若者たちに「彼は元ゴングという雑誌の編集長だったんだ」とか、「トマスはメキシコで結婚式を挙げたんだぞ」と私のことを紹介していた。その中には次男のアトランティス・ジュニアがいた。今ではすっかりCMLLのスター選手である。

ジュニアに最初に会ったのは、2003年5月のアレナ・メヒコだったか。ここでアトランティスのジャーベの連写を特写する企画をやった時、息子2人を連れてきていた。彼らはリングを走り回り、中段と下段のロープの間を抜け、トペ・スイシーダまでしていた。兄弟は8歳と6歳くらいだったか……。

「こいつらは将来、ルチャドールになるよ」と親父は自慢していたが、いくらメキシコとはいえ、十数年後に本当にプロデビューするとは思わなかった。父親が大成功し、何一つ不自由なく暮らせる環境にあったからだ。

次にジュニアたちに会ったのは2007年9月2日。みちのくプロレス『第4回ふく面ワールドリーグ戦』決勝の盛岡大会。この時、アトランティスは奥さんと息子2人をメキシコから連れて来ていたのだ。それが初来日……12歳と10歳の少年たちはまだあどけなく、ルチャドールになるようなハングリーさを感じなかった。

アトランティスとアカプルコで初対面。

私と父親アトランティスとの最初の出会いは1984年2月のアカプルコ。アレナ・コリセオの蒸し暑い控室で、リスマルクに紹介されたのが、前年にデビューしたばかりのアトランティスであった。

「トマス、彼は将来、このエンプレッサ(EMLL)を背負って立つエストレージャになるはずだ。間違いない。日本でも彼のことを紹介してあげてくれ」

そのリスマルクの予言は現実のものになる。私がせがんだわけでもないのに、アトランティスは私に銀シルクのマスクを手渡した。リスマルクがそうしろと言ったのかもしれない。今から42年前の話……そこから私たちの長いストーリーは始まっている。

スタバのアトランティスはコーヒーを飲みながら、息子とそこにいた若い仲間たちに、その頃からの話をし始めた。

「最初に日本に来たのは91年2月だったかな。あれはそう、SWSという団体。初戦が熊本で、ゴングのカメラマンが2人来て、カスティージョ(熊本城)で野外撮影したいというから断って、ホテルの自室で撮った。外は寒いし、見知らぬ人前で裸になるのも嫌だったからな(苦笑)」

そこにいた若いルチャドールたちは、自分が生まれていない時代の話を聞き逃すまいと耳を傾けている。「97年頃だったか、ミステル・カカオのCMLL JAPANでは、たくさんのルチャドールたちと戦えた。それが29年前で、今、お前たちがここで試合しているのと同じような環境で俺はやっていた。その時、俺は34歳だったから、身体がすごく動けていた。楽しいツアーだったよ」

「トマス、一番面白かったのはあの札幌だな(笑)。あれは2003年の夏だったか……」

そうそう、と私は大きく頷いた。「俺はみちのくプロレスの(8月24日の)盛岡でトルネオ(ふく面ワールド)に優勝した。相手はケンドー・カシンだよ。その後、最終日の札幌でディック東郷と戦ってベルト(東北ジュニアヘビー)を獲った。その夜はトマスと焼き肉(ジンギスカン)を食って祝勝会をしてくれた。あの夜は日本に来て初めてビールをガンガン飲んだ。そこから先はトマスが彼らに話してやってくれ」とアトランティスは私に振ってきた。

「翌朝、バス出発の集合時間になっても、アトランティスだけがロビーに降りて来ないんだ。彼は毎日、誰よりも先にバスに乗り込んできたから、どうしたんだろうって、みんな心配したんだ。彼はメキシコ人なのに時間を守るし、練習も率先してやるので、みちのくの選手全員から“本物のエストレージャは違う”と超リスペクトされていたんだよ。でも、その日の朝だけは違った。いくら待っても来ないし、ロビーから部屋に電話しても出ない。“もしかして死んじゃったんじゃないのか”って心配して、フロントに頼んで、ホテルの人立ち会いのもと、合鍵で恐る恐る部屋に入ったわけ。ベッドの上にピクリとも動かず倒れている彼を大声で揺さぶったら、ムニャムニャ言って動いたんだ。本当にホッとしたよ(苦笑)」

アトランティスはそこで大笑い。「優勝、王座奪取、明日メヒコに帰れる……それで気が緩んで、美味しいビールとヒツジを食べて疲れがドッと出たんだろうな。起こされるまで、本当に気を失ったように寝ていたよ(笑)」ここで若い選手たちも大笑い。エストレージャも筆の誤り、いや、大陸王子も木から落ちる……であろうか。

自分の武勇伝と失敗談を楽しく後輩エストレージャたちに語るアトランティスは、彼らから熱くリスペクトされる人生のお手本であった。

アトランティスの自宅にて特写。

2017年にアトランティスの自宅に2度訪問してロングインタビューを行い、それはGスピリッツVol.50に掲載されている。この時、私たちに美味しいコーヒーを淹れてくれた性格の良い息子が、長男のイホ・デ・アトランティスか。

「彼も大学に通いながらアレナ・メヒコのジムへ通っている」

と父アトランティスは、息子たちの将来を楽しみにしていた。その父親も今年9月で63歳になる。あのエル・サントが1982年に引退した時が64歳……それを考えると、アトランティスは元気だ。もしかしたら今回が最後の日本ではないかとも思ったが、まだまだやれそうに映った。私が84年に付けた“幻の大陸王子”というニックネーム……私的にはもう一捻りと思っていたが、「あれは最高です」と言ってくれる人も多い。みなさんはどうですか……。

“王子”と言えたのは80年代で、90年代以降は“幻の大陸王”だったと思う。かなりの長期政権であったが、今は息子に王位が継承されたといっていいだろう。

“親父の名前で出ています”……メヒコに親子ルチャドールは何百といるが、サント、ラヨ、アグアヨ、ワグナーくらいで成功例は少ない。偉大な父の名を汚すことなく、これほど綺麗にバトンタッチされた親子鷹の例も近年珍しい。エストレージャ&レジェンダの形で親子タッグが組めるというのは素晴らしいと思う。

後楽園ホールでの最終日、

「明日から息子たちと中国に旅行に行く。寒そうだけど、楽しみだ。トマス、次は9月のメヒコで会おう」

と別れた。

いつまでも元気で頑張ってほしいウルティモ・レジェンダである。

-ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅