
北海道へ長旅をしている間に、辰巳出版から「Gスピリッツ選集 第二巻 初代タイガーマスク編」が発売されていたね。掲載のインタビューで私が聞き手となり執筆したのは「“ヤングライオン”佐山サトルの足跡」、「師カール・ゴッチから告げられた言葉」、「MSGを揺らした2度のWWF遠征」、対談では新間寿さんとの「追憶―金曜日夜8時の猛虎伝説」、山崎一夫氏との「プロレスとUWFと格闘技」、もう一度新間さんとの「あの日、あの時、“燃える闘魂と過ごした日々”」である。13本中7本は私が担当した。全盛期の1981~83年、はっきり決まっていたわけではないが、私が月刊ゴングのタイガーマスク番だったのは、メキシコのサトル・サヤマ時代に懇意にしていたからであろう。この本を見ると、40数年経った今も私は初代タイガーマスク番のように思える。この本の編集作業中に“新間のおとうさん”が亡くなられた。ここで2つの対談に立ち会えたことは、私自身にとって大きな財産といえる。新間&タイガー&私が最初に一緒になったのは81年夏の蓼科高原ソサエティー倶楽部の合宿。数年前には帝国ホテル「北京」で3人だけの新年会をした。実に40年という長いお付き合いだ。それも今年で途切れてしまった…。私は番記者?として残った佐山さんを今後も大事にしていきたいと思う。この本は新間のおとうさんに捧げたい。再集録ものだけど、タイガーマスクの言葉だけ拾い出したい人、改めてまとめて読みたい方にはお薦めです。

さて、今週の土曜日にはいよいよザ・グレート・サスケとのトークショーが開催される。私にとって16年目にして57回目防衛戦である。これに「チャンピオンベルトカーニバル」や番外のイベントを入れると60回をオーバーする。つまり年に約4回のペースで何らかのイベントをやってきたことになる。でも、今年は今回が初…。なぜかこんなに間があいたかというと、昨年末のアナクラ氏(宍倉清則くん)とのトークショーで毒気に当たって、そのダメージが尾を引いていたのであろう。それも多少あるが、絶対無理といわれた未知の強豪を公衆の面前へ引っ張り出したことへの達成感と、イベントをやり尽くした感を持ってしまったというのが正直なところだろうか。仕切り直しの防衛戦…その相手にサスケ選手だということ良い。決して気を遣うことなくリラックスして話せる対戦相手だからである。

今回のテーマは『旗揚げ33年目…今だから教えちゃう裏の裏 みちのくプロレス誕生の真実』。上記のタイガーマスクのインタビューや対談のように、同じ人でもテーマを変えれば、いろんな違った話を聞き出せる。私は総花的にインタビューして、はいお仕舞…というのは好きではない。だからこれまでのトークイベントではテーマを絞ってやってきたつもりだ。それで今から33年前のみちのくプロレスの旗揚げ。私はその前に何度か盛岡を取材している。今回のイベントのプロローグとして、その頃のことを思い出しながら、少しだけあの旗揚げをおさらいしておこう。小学校の頃、私は“日本のチベット”と習った。その県庁所在地・盛岡を本部にして東北六県をサーキットするプロレス団体をやろうという発想は33年前、実に飛んでいた。今でこそ、全国津々浦々、プロレス団体?らしきものが出来ているが、みちプロが地方都市でプロレスを始めなければ、そういう発想は浮かばなかったと思う。この時点で日本には17団体あったが、本部はすべて都内だったはず(違ったらゴメン)。それを盛岡でやるというアイディア…旅好きの私にとって、このローカルな発想が心に刺さった。

旗揚げ当時、サスケは社長ではなく専務だった。社長はサスケの父上。確か酒屋を経営されていたと思う。盛岡市内のお店と自宅…その裏のガレージと物置小屋を改造したあばら屋のような事務所で彼らはスタートした。最初の社員は盛岡の高校の後輩TAKAみちのく、気仙沼出身の米河彰大(ヨネ原人=沼二郎)、そしてなぜか広島県福山市出身のレオパルド・ネグロ(中島半蔵)がいた。彼らの一日は朝9時から始まる。まずその日のスケジュールを調整し、その後、サスケと半蔵は外回りの営業。3月16日の旗揚げ戦の翌日から全10戦のシリーズを組んでいた。慣れぬ営業をたった3人でやっていたのだ。「今年は雪が多くて運転が大変。岩泉では2度、車をぶつけちゃいましたよ。湯田町なんて地吹雪ですよ」とサスケに言っていた。それでも彼らはトレーニングも怠らなかった。県営体育館か県営球場のトレーニングジムで毎日午後6時から9時まで練習をしていたのだ。TAKAに至っては、練習の後に雪の中、深夜0時までポスターを張っていた。そんな若者たちを応援したくなるのは真情というもの。

私は旗揚げ前日に改めて盛岡入りする。東日本ホテルには新幹線で来たグラン浜田、ブラックマン、エル・シグノ、ケンドー、エル・サグラド、ロッキー・サンタナらがチェックイン。旗揚げ前日の記者会見では、あるあるの金屏風前での乱闘(サスケvsデルフィン)がやっぱりあった。その後、トレーニング場でスパーリングをした後に合宿へ行く。そこにはデルフィン、SATO(ディック東郷)、獅龍、テリー・ボーイ(Mensテイオー)、バッファロー張飛、モンゴリアン勇牙(新崎人生)、木村吉公(愚乱・浪花)が集まっていて、夜の最終ミーティングが始まるが、後楽園とかで見る彼らの顔付きと違って、ものすごく緊張感が走っているのがわかった。この時点で彼らはまだユニバーサルの選手だった(デルフィンはユニバ大阪支部のワキタ・プロダクション)。サスケ専務が「清水さんも何かあったら、一言いただけますか」と突然振るもので、私はそこで生意気にも若い彼らの前で演説をぶってしまったのだ。中身は忘れたが、プロとしての心構えを説くようなことだったと思う。そうしたら緊張していた彼らがもっと緊張してしまったのを憶えている。でも、私はこう思っていた。彼らよりも、トリ(メイン)さえしっかりしていれば大丈夫だと。メインはサスケ&浜田vsシグノ&ルード(エル・ブロンコ)。ここは鉄板だから心配はしていなかったのだ。

試合当日で思い出すのはリングのこと。試合開始は18時半だが、選手とスタッフは12時頃には矢巾町総合体育館に集まっていた。前日届いたばかりの新しいリングを選手全員で組み上げると、何とリング下に敷く板が2枚寸法違いで長かったのだ。このままではエプロンの縁から板が飛び出てしまう。ノコギリがあれば切れるのだが体育館にはなかった。「おいおい、どうする」、焦るサスケ。今ならばすぐにスマホで工務店を探せるが、当時はそうはいかない。私はサスケに「俺が行くよ」とTAKAの運転するバンに板を積んで、雪道の町内で大工さんを探し回った。それでやっと工務店を見つけて切ってもらったのだ。事情を告げると、タダでやってくれた。その大工さんのおじさんがこう言った。「おお、みちのくプロレスかい。チケット買って今晩、家族で行こうとしていたところだよ。ここらは娯楽がまったくないからさ、プロレスをやるのは大歓迎。サスケ…だっけ、テレビでやたら宣伝しているから知っているよ。頑張ってほしいね」。それを聞いて、感激した。

実はさっきの「おい、板が長いよ」って騒ぎになった時、それを何と9台のテレビカメラが取り囲んで撮っていた。各局、ドキュメントタッチで脱都会派プロレス団体のエースであるサスケの一挙手一投足を追っていたのだ。NHK、TBS、テレビ朝日、フジテレビ、テレビ東京、仙台放送、岩手めんこいテレビ、SVN(格闘チャンプフォーラム)、地元・IBM(岩手放送)に至っては試合を生放送するという熱の入れよう。テレビが9局、ラジオが1局、そこにプロレスマスコミだけでなく朝日新聞、共同通信、他一般週刊誌も参入しての大取材合戦が繰り広げられたのだ。私は86年11月1日、七尾市総合体育館で輪島大士のプロレスデビュー戦を前乗りで現地取材している。その時もNHKなど多くの局や一般マスコミが来て取材合戦を展開していた。でも、私の見た限り、同じような遠隔地での取材フィーバーでは、みちのくプロレスの旗揚げの方が元大横綱のプロレス転向第1戦に勝っていたと思う。これだけのメディアをコントロールし、営業をし、練習もし、リングやイス、売店などの設営もし、音響機器のセッティングもやり、ルチャドールたちとの対応もする…他にも諸々やって最後にエースとして試合もする。1人10役くらいこなしている姿を見てザ・グレート・サスケ…こいつはとんでもない男だと思った。力道山、猪木、馬場、吉原、前田、大仁田…プロレス旗揚げ経験者でここまで一人でやった男はいないであろう。そのバイタリティ、頭の回転の良さは未だに健在だ。トークショーの第1部では旗揚げ前後の話を、それ以降の東京進出や大物ガイジンの招聘などの話は第2部でしようと思う。ラストはツーショット撮影会。そしてサスケの売店では当日被ったマスク(旗揚げ当時に近いデザイン)を販売する予定だ。当日は今とは違う旗揚げ戦当時のサインをしてくれるとのこと。先日、東京駅のホテルでGスピのロングインタビューした時も、同じ現場にいるのに、お互い憶えている部分が違うと感じた。今回は、サスケが忘れているかもしれないレアなネタを用意し、サスケは私の知らないみちのくの話を聞かせてくれればいいなと…そしてお互いしっかり記憶していたことで共鳴できればと楽しいだろうと思うのである。トーク中には当時の週刊ゴングの記事を話に合わせてスクリーンに映し出すので、その時代を知らない人たち、現場に行ったことのない人たちにも理解できるような演出しようと思う。30数年前のみちのく創成期の記憶のすり合わせ…そんな我々のトークを是非覗きに来てください。