先週の土曜日は闘道館でのマイティ井上さんの追悼イベントに出席。中身も濃くて、とてもいい会でした。そしてフルハウスのお客さん…マイティさんが愛された方であったのだなあと再認識させられました。当日はマイティさんのお誕生日、天国で吉原社長、ラッシャーさんたちと一杯やってください。

さて、今週も70年代前半に中学生の私がやっていた都内のボクシングジム巡りの“取材話”をしましょう。私が西城正三の協栄ジム(代々木)、小林弘のSB中村ジム(恵比寿)の他に愛車のチャリンコで行った中に赤坂の極東ジムがある。赤阪には日プロ時代、よくホテルニュージャパンに行っていたから土地勘はある。極東ジムはWBC世界ジュニアライト級王者の“精密機械”沼田義明を抱える最古といわれる老舗ジムだ。このジムの会長は日本ボクシング協会の初代副会長でもあった小高伊和夫。(『あしたのジョー』に登場するウルフ金串の所属するアジア拳の会長が大高という重鎮だったのは、この極東の小高氏の名と立場を連想させるものだった)。でも、中が覗けないのでジムの前で待っていたら、出て来たのは沼田ではなく、何と東京五輪の金メタリスト桜井孝雄(三迫)だった。桜井は出稽古に来ていたようだ。沼田用の用意していた色紙にサインを貰う。これはこれでラッキーと言うべき出来事だった。

WBC世界フェザー級王者の柴田国明のヨネクラジムは目白、WBA世界フライ級王者の大場政夫のいる帝拳ジムは王子だったので、自転車で行くにはあまりに遠くて断念している。我が家から一番近いのは目黒にあった名門・野口ジム。権之助坂の途中にあってガラス越しに歩道からジムでの練習が観られるのが嬉しい。キックボクシング部門では目黒ジムと呼ばれ、野口恭会長は超人気者の沢村忠を抱えていた。沢村のサインがほしくて何度か通ったが会えず、居たのはボクシングの柏葉守人。柏葉は後にジョージ・フォアマンの武道館での防衛戦のセミでメキシコのアルフレッド・アルレドンドに挑戦して敗れている。野口ジムでは私の一番好きな竜反町にも会えた。高度な技術も持った人気選手で、世界に3度挑戦もして敗れた悲しきヒーローだった。私はアリスの『チャンピオン』の歌詞は、反町の世界戦と重なり、「あの曲は反町を唄っているのに違いない」と、今も勝手に思い込んでいる。

GスピリッツVol.75の門馬さんと小佐野君との1975年検証の座談会で残念ながら使われなかった部分がある。司会者から「猪木さんは前年からしきりに馬場を挑発して日本選手権をやろうと煽りますが、当時のファンは馬場vs猪木が実現すると思っていたのですか?」という問いがあり、私は「他のファンは知らないけど、俺自身は絶対やるわけないって思っていたよ」と答え、そこでボクシングの話を引用している。それをここで説明しておこう。西城正三が68年9月にロスで世界フェザー級王座を奪取して凱旋し、ボクシングはスピードとビジュアルの新しい時代が始まる。

この直後に三階級制覇を狙うファイティング原田(笹崎)が西城のタイトルに挑戦かという話題が俄然盛り上がった。例えるならば古豪の原田が馬場で、スマートな新星の西城が猪木って感じか…。ところが69年4月に原田が調整試合で無名選手にまさかの敗戦…これにより実現すれば1億円興行といわれた夢の日本人対決はお流れとなる。それ以外にも金平と笹崎、海千山千の両会長の駆け引きもあり、「逃げた」「逃げたわけではない」という論争もあった。67年12月に沼田義明vs小林弘(挑戦者の小林が12回KO勝ち)という日本人同士の世界戦が実現しているものの、改めて日本人大物同士の対決の難しさが浮き彫りになった。

70年4月、沼田が日本人初のWBC王者となった時もWBAの同級王者は小林弘のままだった。70年12月11日、ティファナで柴田国明がメキシコの英雄ビセンテ・サルディバルを破ってWBC世界フェザー級王座を奪って日本人5人目の世界チャンピオンになった時、WBAの同級王者には西城が堂々と君臨していた。同じ階級にAとCの「2人の世界王者」が存在する不思議な現象にボクシングファンは首を捻る。しかし、小林vs沼田、西城vs柴田の統一戦は話すら持ち上がらず、実現することはなかった。それはAとCの双方の団体の意向ではない。テレビである。60年代、各民放ではそれぞれレギュラーのボクシング番組があって、30%前後の高視聴率を稼いでいた。ボクシング中継はプロレス以上の最強コンテンツだったのだ。だからファンは日本チャンピオンになる前からお気に入りの選手を応援していた。ボクサー(ジム)は日本ランク入りした頃からテレビ局と専属契約して、番組がその選手を日本、東洋、世界と育てていくのだ。当時の世界チャンピオンはプロレスのように団体のお抱え選手ではなく、各民放のテレビ局が世界王者たちを抱えていたのだ。今と違って世界王座を奪取した時、新王者の腰にチャンピオンベルトはない。ベルトは初防衛戦の頃にテレビ局が作って王者に贈呈していたのだ。放映する局は世界王者のタニマチでもあった。これを踏襲してか、日本プロレス時代の大半のベルトは日テレが一枚噛むが、UNはNETが贈呈している。また国際プロレス初期はTBS、後期は東京12チャンネルが贈呈している…これはボクシングから続く慣例なのだろう。つまり小林弘は日テレで沼田はTBS、西城は日テレ(後に12チャン)で柴田はフジテレビ…これでは統一戦が実現するわけがない。この当たり前のような理論は中学生の私でも解けた。

1970年の時点でそれを知ってしまったから74~75年に持ち上がった馬場vs猪木が実現しないと断言できたのだ。馬場=日テレ、猪木=NET(テレビ朝日)では、最初からやれるわけない。これだけの黄金カードをノーTVでやるメリットなんて何もないのだ。猪木が「日テレで中継していいから、馬場さん俺とやろう」と言うなら実現したかもしれないが、そのくらいの覚悟で挑戦発言をすべきだった。沼田vs小林の初戦は王者・沼田の領域TBSに挑戦者の小林が踏み込んだから日本人同士の世界戦が実現したのだ。西城vs原田が実現しなかった裏には長年、原田を中継していたフジテレビが日テレの中継を嫌がったからという説もある。小林vs西城の日本人の世界王者同士の夢の対決が行われたのは、どちらも日テレのお抱え世界王者だったからである。あの時期、所詮できないことをアピールする猪木の挑戦発言は好きになれなかった。また“言った者勝ちで、それに踊らされる”ようなプロレス界の風潮にも首を傾げた。

ボクシング黎明期から黄金期に世界チャンピオンたちを抱え込んだテレビ局をチェックしておこう。日本初の世界王者の白井義男は日テレだったという。ボクシングの第一次黄金時代は1954年から62年頃だったといわれる。NHKを含め各民放がゴールデンタイムで競うようにボクシング中継をしていた。2度も世界フライ級王者になった(1963~64、1969、)の海老原博幸(協栄)は最初フジで後に日テレ。世界ジュニアウェルター級王者(1967~68)の藤猛(リキ)はプロボクシング界への進出を夢見た力道山の遺志を形にした日系三世だが、あのハンマーパンチを育てたのは日テレではなくTBSであった。カエル跳びの輪島功一(三迫)は世界ジュニアミドル級(現在のスーパーウェルター級)を3度も獲得する(1971~74、1975、1976)はTBSが若手時代から世界までを支えた。WBC世界ライト級王者(1974~76)になったガッツ石松(ヨネクラ)は日テレで、大場の死後にフライ級王者(1974~75)になった花形進(横浜協栄)は、初期は日テレだったが、後期はフジテレビのお抱えだった。

ちなみにTBSの藤猛、輪島のチャンピオンベルトは国際プロレスの初期のベルト(TWWA世界タッグ、英国西部&南部他)にどこか雰囲気が似ている。一方、日本テレビの小林と西城は同じメーカーのお洒落な作品。同じ日テレでも大場政夫のWBA世界フライ級(1970~73)のベルトに緑基調の流線形のスタイリッシュなデザインでプロレスっぽい。石松も日テレだったからか、赤ベースの流線形で現代的なベルトだった。フジテレビが世界王者を支えた花形と柴田(フェザー級=1970~72)のベルトは、イマイチだったが、柴田のライトヘビー級世界王者時代(1973、74~75)のベルトはプロレスっぽいスタイリッシュなものだった。ちなみに柴田は『栄光のチャンピオンベルト』という唄をシングルリリースしている。ただ、この時代、ベルトはあくまで脇役で、決して栄光の証ではなかったと思う。私みたいにベルトがどうのこうのというボクシングファンなどいなかったのでは…。それは私がプロレスとの二刀流ファンだったからであろう。ボクシングとプロレス…似て非なるものもある一方、同じ四角いリングを使った興行の世界だから裏では似たような駆け引き展開される。プロレスサイドからボクシングを見る人は少ないだろうが、ボクシング側からプロレスを見ると、いろいろ透けて見えることもある。プロレスは日本プロレスから猪木、馬場が抜けたあたりから大人のファンが少しずつ減少し、70年代には私のような少年、青年層のファンが増えていく。だが、ボクシングの世界は変わることなく大人のファンたちによって支えられていた。ボクシングを並行して観察してきたことで、私は他のプロレスファンの子どもたちよりもマセていたというか、少しだけ大人寄りのものの見方が出来ていたような気がする。たぶんね…。