いよいよ、8月30日(土)にザ・グレート・サスケとのトークイベント『ビバ・ラ・ルチャ』が迫って来た。私にとっては今年初めて、8ヵ月ぶりのトークショーだ。これだけ長いブランクがあったのは第1回~第2回以来か。それももう16年前の話だよ。果たしてちゃんと喋れるかどうか…。いや、その心配はない。今回のゲストが議員の経験もあるサスケだから、トークが抜群…私のブランクを見事埋めてくれるに違いない。Gスピリッツの取材でグラン浜田追悼のインタビューを2回にわたってやった。9月末発売のGスピには、下編が載る。この話は先日、東京駅ステーションホテルで収録した。相変わらずサスケの話は面白い。頭の回転が早く、滑舌も良く、話の組み立てがとても上手い。トークショーをやる時に心配なのは、ゲストから返ってくる言葉が少な過ぎたり、話下手だったりする場合。でも、サスケにはその心配はまったくない。ボキャブラリーが多く、比喩も上手いし、記憶もいい。だから30日は間違いなく楽しいトークが聞けると思う。サスケとの付き合いは35年にもなるが、一度、みんなの前でゆっくり話してみたいという気持ちが今回のトークショーに結び付いたのである。

みちのくプロレスの発足にはウォーリー(山口)が深く関わっている。彼はゴングの編集部に籍を置きながら、ユニバからみちのくのレフェリー→デルフィン軍プレイングマネージャー…と二足の草鞋を履く根っからのリアルプロレス野郎だ。知識や経験もすごいが本当は自分がリングで試合に絡みたいタイプ(あんな小柄でなければいいヒールになっていただろう)。ウォーリーは新崎人生が登場した時にブッチャーのシュッシュッという決めポーズと地獄突きやアンダーテイカーのロープ渡りなどを授け、ヨネ原人(ミッシングリンクを)を作らせた。こういう若い団体にはウォーリーのような知恵が必要なのだ。特に「アメリカのどこどこの団体ではこんな破天荒なことをして、すごくウケた」と言うようなアイディアや悪知恵は脳みそに満タンに蓄えている。サスケ新社長は聞く耳を持ってくれる人物。だからウォーリーだけでなく、当時ゴングの編集長だった私の言葉を聞き入れ、いろんなアイディアを受け入れてくれた。私には「メキシコではこういうカードを組んで客を盛り上げた」「こういう抗争のやり方がメキシコにはある」とか、ユニバでは通らなかった秘策が頭にたっぷり詰まっていた。それらの入れ知恵をサスケ社長は次々に採用してくれたのである。

週プロは、そういうことを団体との癒着と捉えるが、ゴングの人間の感覚はまるで違った。「それでプロレスが面白くなればいいんだ」という感覚である。そこには利害関係はない。竹内さんがこう言っていた。「日本プロレスは我々マスコミの意見を聞いてくれなかったよ。国際の吉原社長は聞く耳を持ってくれたけど、やっぱりあまり立ち入られるのは嫌いなタイプだった。“プロレスラーになった者しかわからない世界がある”って感じ。でも馬場さんや新間さんは聞く耳を持ってくれて、逆にいろんな相談を持ってきたよ」。ご存知のように全日本の初期にはベースボールマガジン社の顧問だった森岡理右氏を陰のブレーンとしていた。70年代後半、そのバトンを引き継いだのが竹内さんだ。竹さんは同時に新間さんとの繋がりから新日本の数ある仕掛けを手伝っている。双方の秘密事項を絶対にバラさないという信頼関係がそこにあった。馬場さんも、新間さんも竹さんの持つプロレス知識だけでなく、プロレスファン代表としての見方がどうであるかを欲していた部分もある。「こういうことをすればファンは喜ぶ。こういうことは嫌う」ということは団体側からの視線では、なかなか見えて来ない。そこで竹さんの意見を問うのである。「竹ちゃんどう思う?」「竹内の坊やはどう?」と求められると、「OK」以上のプラスを加えて返す。ラーメンとかで言えば“味変”みたいなスパイスである。この臨機応変さ、頭の回転の良さを、馬場さんと新間さんは高く買っていたのである。

本年1月に100歳になられたEMLL(現CMLL)の2代目代表サルバドル・ルテロ・カモウ氏に10年前にロングインタビューをさせてもらった時にこんな話をしてもらった。「私が父からアレナ・コリセオのプロモートを任された1943年にEMLLにはマッチメーカーは4人いました。その中の一人、ヘスス・カランサは新聞記者でしたよ。マスコミの人間を入れることで、一方的に我々がカードを組んで提供するのではなく、観る側…ファンが望むことを吸い上げることが出来る。この世界のマスコミは団体とファンの繋ぎ役であるべき。だから父はそういう人事をしたんです」。私はなるほどと頷いた。EMLLはその後も『ボクス・イ・ルチャ』誌のホセ・ルイス・バレロ編集長、『アレナ・デ・ルチャ・リブレ』誌のマリオ・パヤン編集長…など、多くのマスコミを抱え込んで意見を貰っている。そういう点で一番わかりやすいのが『エル・アルコン』誌のエクトール・バレロ・メレ編集長。彼はUWAのブレーンとして大活躍し、ロス・ミショネロス・デ・ラ・ムエルテ、ボビー・リー、ウルトラマン、クチージョ、ブラックマンらを送り出し、サントvsボビー・リーなどの名勝負を企画した。まあ、ここまで行けば癒着を通り越したビジネスである。私がメヒコへ行ってよく聞かれたのは「レビスタ・ゴング(ゴング誌)はイノキか?ババか?キミはEMLL派か?UWA派か?」だった。あの時代、『エル・アルコン』と姉妹誌の『コンバテス・デ・ルチャリブレ』誌以外の5誌は全部EMLL派であった。私はメキシコで2団体をバランス良く取材し、日本でも新日本と全日本に偏ることなく取材に行った。「プロレスのマスコミとは団体から与えられたものをただ報道していただけでは駄目。海外等で学んだことを日本のプロレス界に逆注入すべし。是すなわちプロレスへの恩返しなり」。私の持論です。

さて、話をみちのくプロレスに戻そう。だから旗揚げ当時の数年間、私は「東京から遠く離れた地でやる、みちのくプロレスをどうすれば面白く出来るか。どうやれば東京だけでなく全国からの注目を集められるか」を真剣に考えた。サスケの聞く耳によって、私のアイディアが多く、リング内外で形になった。それらが何であったかは、トークショー当日に明かされることになるだろう。でも、それらは思い付きではない。何かヒントがあってのものである。サスケは「東北にルチャの火を」とか「50年計画」とかスローガンを上げていたが、ドクトルとしてはそれを何とか支援し、言葉通りに推進したいと思っていた。みちのくには単なるインディーに留まらない高い技術を持った選手たちの集結体。そしてキャラが立っていた。故にデザインもしやすい。ユニバ旗揚げ前には「日本でルチャなんか成功しないだろう」と冷ややかだった竹内さんも、本場のスペルエストレージャたちの高度なテクニックに舌を巻いていた。そしてみちのくプロレスに対しても熱い期待をかけて、私の背を何度も押してくれ、みちのくが面白くなるならばと会社から特別に資金も出してくれたのだ。こんなケースは他団体では決してなかった。それが何なのかも、トークショーで明かしていこうと思う。30日…ここでしか聞けない、みちのくプロレスとゴングの癒着?いや、熱い協力関係も披露したい。また、当時の私も知らない秘密をサスケ選手の口から引き出したと思っている。過去のサスケもののトークショーとは明らかに中身が違うので、是非、お越し願いたい。