ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅

【第715回】プレゼント着(1)

「メキシコ観光」主催の両国興行へ来たメキシコのレジェンドたちのことで、こんなことを思い出したので書き記しておきたい。あの試合の前日(4月26日)昼に上野の同社で即売会があり、その夕方のこと。両国のホテルの前でネグロ・ナバーロ、オクタゴン親子、エル・パンテーラが私の来るのを待っていてくれた。彼らの日本滞在はジャスト2日間。まさに弾丸ツアーだった。時差ボケらしいが、この夕方は超貴重なオフタイムなのだ。「何処へ行きたいの?」と聞くと、オクタゴンは「ウエノ」と言う。さっきまで上野にいたのに、なぜ?と聞くと「バタが買いたいんだ」と言う。BATAとは医者や薬剤師の来ている白衣とか、上っ張りみたいなもの。あるいはシャワー後に着るガウンみたいなものをいう。瞬間、何かわからなかったが、ああと思った。外国人がお土産で買って帰るシルク地の着物みたいなガウンのことだ。「それならば上野ではなく、浅草だよ。仲見世には専門店もある。早く行かないと店が閉まってしまうよ」。ということで観光ではなく、タクシーで浅草へ向かう。

オクタゴンは浅草で黒いバタをお買い上げ。

東洋キャラのオクタゴンはコスチュームとしてバタが必要だったのだ。ナバーロもパンテーラも特別行く所がないので同行。パンテーラは、日本の美味しいラーメンさえ食べられればいいって感じだった。バタの専門店でオクタゴンは熱心に品選びをしている。店の前でナバーロが「ああ、バタって、あれのことか。昔、トマスにプレゼントしてもらったよね。背中にドラゴンの刺繍をしたやつをさ」が言う。私もすっかり忘れていたけど、確かにミショネロス全員に白いお揃いのバタをプレゼントした。襟元に「地獄の伝道師」と漢字で、「ネグロ・ナバーロ」と横文字で、金糸の文字を入れたもの。あれは83年1月の、2度目の来日だったかな。その会話を聞いていたパンテーラに「トマスは他に誰にバタをプレゼントしたの?」と質問される。「最初はエル・ソリタリオかな」と言うと、パンテーラが「ええっ!」と驚く。「ソリタリオは私のアイドル中のアイドル。私が若手の頃、控室の隅で彼の一挙手一投足をドキドキしながら覗き見していた。エレガントで格好良かったねえ。トマスはビスカイーナスのアパートに居候していたんだろ。“トマス”って名前を命名したのもソリタリオだって、あの時代の選手たちならば誰でも知っているよ」。

ミショネロスは伝道師だからと白にした。

あれは79年5月の新日本への来日前だったと思う。1月~2月のメキシコでお世話になったソリに何かプレゼントしようと考えて、着物風のアレ(バタ)を手に入れた。買ったのは浅草ではなく、新宿だったと思う。そう、黒いバタをね。それを渋谷の刺繡屋?に持ち込んで「孤狼仮面」「エル・ソリタリオ」と両襟に入れてもらった。渋谷から並木橋へ行く途中の四畳半くらいのとっても狭い店で、老店主がミシンの前に座っていた。ネットもない時代にこんな店をどうやって見つけたのか、思い出せない。メキシコ人に限らず、ガイジンが漢字好きなのは知っていた。ただ、単に着物を買って渡すよりも、日本語の入ったもののほうがもっと喜ばれると思った。現にソリはこれを見て大喜びしてくれた。それは5月16日の姫路のホテル。「こっちの不思議な文字はなんて書いてあるんだ?」。「それは日本での貴方のニックネームだよ。一匹狼仮面…かな」。メキシコでは“エンマスカラード・デ・オロ”(黄金仮面)だけど、孤狼仮面のほうが字面もいいので、こっちにした。ちなみにこの命名は竹内さんだった。81年に私がメキシコに再訪した時、ソリタリオはアンドレとタッグを組んだ試合(9月30日=パラシオ・デ・ロス・デポルテス)で、私に見せびらかすように、プレゼントしたバタを着てくれた。「トマスからもらったこれ、大事にコスチュームとして使っているよ。控室で他の選手たちが“それ、いいなあ。俺もほしい。今度、日本に行ったら、トマスが作ってくれるかな”なんて言われたよ」。聞けば日本から帰った直後に意識してこれを着るようにしているらしい。「俺は日本へ行って成功したんだ」という証のようなものだと言う。86年にソリが死んだ後、遺品は家族を通して一部は友人たちの手に渡った。ある写真に見憶えあるバタが!そう、カト・クン・リーがソリのバタを着ていたのだ。襟には確かに「弧狼仮面」の文字が…。カトは亡くなるまでこれを大事にしていたようで、今は恐らくカトの遺族が持っているのではないかと思う。

私がメヒコで撮ったソリタリオのバタ姿。

ソリの次に作ったのは81年3月、新日本に来日したペロ・アグアヨ(黒=狂犬)、アニバル(青=青い矢)、フィッシュマン(黄緑=怪魚仮面)の3着。“ラ・サエタ・アスール”はメヒコでのアニバルのニックネーム…直訳すると「青い矢」。櫻井康雄さんは「昆虫仮面」と書いたが、これはハズレで浸透しなかった。「怪魚仮面」は私が付けた名で、古館伊知郎アナがこれを絶叫した時に「ああ、認知された」と思った。京王プラザホテルでこれを着てアグアヨ&アニバル&フィッシュの三者対談をしてゴングに掲載した(会社からこれらを作るのに一銭ももらっていない。もちろん全部自腹である)。

急ぎ仕上げさせたので怪魚仮面だけが貼り付け文字に。

次がビジャノ3号。京プラへ行ったら「欲しかったのだよ、これ。メキシコでヘナロ(フィッシュマン)に自慢された」と言われた。日本へ行って、トマスにこれを貰って帰って着るのはエストレージャたちにとってブームになりつつあったようだ。ビジャノのそれはマスクの色に合わせて紺色を用意する。襟には「悪魔童子」と入れた。これは私の命名…。メンドーサの息子をどう表現するか悩んで付けた名だ。仲見世商店街を歩きながらパンテーラが「それで他に誰のを作ったの?」と興味津々に聞いて来る。横でナバーロが笑っている。次か…次が82年3月のブラックマンだったと思う。ブラックマンは、これを着て「チャコのアタック・インタビュー」に出てくれ、新宿御苑でロケをした。ドス・カラス、カネック、ウルトラマン、ドクトル・ワグナーのは作らなかった。なぜか特に理由はない。

「黒忍者」とチャコ。やっぱブラックマンは黒だね。

その次が前述の83年1月のミショネロス・デ・ラ・ムエルテ。プレゼントした選手たちの大半は、帰国後にエル・トレオでこれを着て出場している。メキシコ通信員から送られて来る写真を見ると、私はとっても嬉しくなった(『リベラ』の山口店長の気持ちが私にも少しわかった)。恐らく最後に作って渡したのは、84年1月のリスマルク。青いバタの襟には「アカプルコの青い翼」と入っていた。このニックネームの命名者は竹内さんである。全日本来日選手で作ったのはリスマルクだけかもしれない。リスが帰国したのは1月23日。同年2月、私は結婚式と新婚旅行でメキシコへ行き、アレナ・コリセオ・デ・アカプルコで取材をした(2月15日)。その日、リスマルクはプレゼントしたバタを着てリングイン。それにはこういう意味が込められていた。「愛するアカプルコのみなさん、私は初めて先日、日本に遠征し、トリウンファドール(成功者)になった。そしてホラ、リングサイドには日本からもカメラマンが私を取材に来ているよ」と、ここから世界に飛び出して注目されるエストレージャになったことをアピールする意図と私への感謝を感じた。その晩、リスマルク夫婦の招待で我々新婚夫婦は夕食を共にする。ソリの時もそうだったけど、この時のリスもそう…「ああ、この着物がこういう風に使われていたんだ」ということを思い知らされる。なるほど、彼らに喜ばれるわけだ…。

アカプルコで私の前に出現したプレゼント品。

リスマルクを最後にバタを作らなくなったのはなぜか。それは渋谷の刺繍屋の親父が死んでしまい、閉店されてしまったからだ。この人は金糸で美しい書体の文字を縫う高い技術があった。漢字も、横文字も…実に芸術的だった。あの文字が入れられたから、バタそのものが生きたのであり、あれが無くてはただのお土産って感が拭えない。ハルク・ホーガンが一時的に「一番」って図案のバタを着て日本人に媚びるようにリングインしていたけど、私としてはあの襟に「超人」と入れてあげたかったよ。それにしても、あの刺繍屋のお親父さんこそ、日本のラヌルフォ・ロペスみたいな唯一無二の職人だと思う。パンテーラは私の話を聞いて、満足そうにこう言った。「トマスからエストレージャたちにプレゼントされたバタは伝説のアイテムになっているね。ビンテージのマスクみたいだ。全部で10着かあ」。確かに、私の知らないうちにレジェンドアイテムになっていたんだね。プレゼントした10人…ナバーロ以外、誰一人生きていない。「俺だけか…」と呟くナバーロ。パンテーラがこんなに突っ込んでくれなかったら、この話題を書くことはなかっただろう。いろいろ思い出させてくれて、パンテーラさん、ありがとう…。「さあ、ラーメンを食べに行こう」。話ついでに来週も、この事をもう少し掘り下げてみたいと思う。

-ドクトル・ルチャの19○○ぼやき旅