先週に続いて、またまたメキシコから訃報が届く。16日にメキシコシティの自宅で亡くなったのはコロソ・コロセッティ…彼は私の『ワールド“アミーゴ”カップ』(?)における唯一のアンゼンチン代表であった。私はいつも「エリオ、エリオ」と呼んでいた。本名はエリオ・カルロ・コロセッティ・ブセティッチ。1946年とか1948年生まれとマチマチな情報が流れていたが、すべて大間違い。正確には1938年5月19日、首都ブエノスアイレス生まれ。だから御年85歳だったことになる(マスカラスより一つ年上)。
記録として発見できた最後の試合は1998年10月のイダルゴ州でのカベジェラ戦(vsトルエノ)。2000年代にメキシコへ行っても消息を聞かなかったが、2017年くらいに「メキシコシティに住んでいて、元気みたいだ」という情報が入る。昨年、メキシコへ行った時、親友のクリスチャン・シメット弁護士に「コロセッティに会う?コンタクト取れるよ」と言われたが、残念ながら時間が合わずに機会を逸した。今年9月の来墨で再会できるチャンスがあると思ったが、「具合が悪いらしいよ」と聞き、遠慮した…。う~ん、残念無念である。
再会が叶ったドレル・ディクソン(ドミニカ=92歳)と叶わなかったコロセッティは、他国からメキシコへ来て定住した2大レジェンドといえる。その証拠に、上のようなレジェンド本が出ている。エリオの父親は息子と同名でイタリア生まれ。第一次世界大戦の戦火を避けてアルゼンチンへ移住してお役人さんになった。母のフランシスカはユーゴスラビアの血を引く混血。アルゼンチンにはイタリア系の移民が多い。19世紀初頭、アルゼンチンはスペインから独立後、農業生産を上げるためにイタリアから多くの移民を受け入れた。あの『母を訪ねて三千里』もイタリアからアルゼンチンのルートを辿って母を探しに行くストーリーであった。20世紀に入っても内戦を避けてイタリアからの移民が続く。アントニオ・ロッカやトニー・ロコは、そうした伊→亜の移民から誕生したプロレスラーということになる。猪木がブラジルに移民して奥地で農業従事者として陸上選手として心身を鍛えたように、イタリアからの移民たちはアルゼンチンの大地で鍛えられ、そこから北米でプロレスの華を咲かせようとした…。エリオは7歳からトレーニングを始めるが、父は第二次大戦でイタリアに徴兵されて戦死した。エリオは青年期にボディビルクラブで身体を鍛え、ルナ・パーク(ブエノスアイレスの蔵前国技館)でアルゼンチンの力道山?マルティン・カラダヒアンの試合を観てルチャに感化される。エリオにとって大きな転機は1962年にメキシコに渡り同胞の大先輩ウォルフ・ルビンスーに師事したことだろう。ルビンスキーは1921年リトアニア生まれで幼少期にアルゼンチンへ移住し、そこでアマレス王者になった。その後にプロとして45年にメキシコへ渡り、エル・サントのライバルとして活躍。映画界でも常に主役となるほど名優として知られるようになる。彼の許には後にゲリラ・コンビとしてタッグを組むセサール・バレンティーノやあのラ・フィエラの実父エラクレス・ポブラーノ、ラ・ソンブラ・ベンガーラらが集まり、本格的なレスリングを叩き込まれる。ルビンスキーは私が1984年に結婚式を挙げた後の夕食パーティーをしたアンゼンチン高級レストラン「リンコン・ガウチョ」のオーナーで、私たちを手品で楽しませてくれた。
その後、エリオはコロンビアでエル・アポロ・アルヘンティーノ、エル・サルバドルではエル・エンテラドール2号、グアテマラではバットマンと名乗り、ペルーやチリ、ボリビアではタルサン・デ・オロとして中南米諸国を転戦。メキシコでは最初、エル・インテルナショナルを名乗り、すぐに素顔のコロソ・コロセッティに改名。“コロソ”とは「巨人」「巨星」「傑物」を意味する。決して「殺す」とか「殺せ」とかではないのだが、日本では「パンパの殺人者」みたいなニックネームがついていた(付けたの私かなあ…)。パンパはアンゼンチンにある大草原地帯のこと。185センチ(本人曰く182センチ)のエリオはメキシコでは巨人の部類なのかも。大きいから使い勝手がある。彼はロス地区やテキサスなどアメリカでも重宝されたし、ヨーロッパ諸国にも足を伸ばし、ジャーニーマンとして活躍する。彼のハイライトは何と言っても1970年2月13日のアレナ・メヒコでレイ・メンドーサを破ってメキシコマットの最高位であるNWA世界ライトヘビー級王座を奪ったことだろう。このベルトは一度も防衛できずに4月24日のリターンマッチで奪回されてしまうが、前年にボボ・ブラジルが馬場を破ってインター王座を奪取し、奪還したくらいのインパクトがメヒコであったはずだ。同時期にメキシコ入りして活躍したミステル・コマ(マシオ駒)と並んでコロセッティは名誉ある70年度最優秀外国人賞に輝いている。「ルビンスキーは父親代わり、チャボ・ルテロ代表は第2の父だよ」と話すコロセッティ。端正な顔立ちとルビンスキーの指導による演技力でサントやウラカン・ラミレスの映画にも出演している。
1978年春の『第1回MSGシリーズ』にカルロス・コロセッティの名で初来日。ロスのルートであろう。彼がアメリカス・タッグをジョナサン・ボイドと組んで一日だけ獲得したのは翌79年5月のこと。さて初めての日本では、予選トーナメントで永源を変型揺り椅子固めで破って2回戦へ(4月23日=土浦)。これ、どんなジャーベだったのだろう? 翌24日には名古屋で藤波のWWFジュニアヘビーに挑戦してジャパニーズ・レッグロールクラッチで敗れた。ブルーとシルバー(白)のアルゼンチンカラーのラメタイツが印象的(シューズも同色)で、乱入してきた上田馬之助を藤波と共闘して追い払うという男気を見せた。さらに翌25日の大田区でのAブロック2回戦で再び藤波と対戦し、ドラゴン・スープレックスで連敗する。5月9日の敗者復活戦の2回戦では上田と対戦して敗退。それでも木村健吾、木戸修あたりにはシングルで勝てていた。でも、全33戦あった同シリーズだが、可哀そうに11戦目(5月11日=福岡)を最後にひっそりと強制帰国?させられている。新日本ではよくあること。最初から3週間だけの契約だったのかもしれないが、全戦参加の予定で途中で帰る発表等はなしだった…。
再来日は82年の『第5回MSGシリーズ』。この時はリーグ戦には参加せず、もっぱらタイガーマスクの対戦要員。ただし、同様な立場でピート・ロバーツとブラックマンもいたので、コロセッティの存在感は薄かった。それでもタイガーとはシングルで3戦して全敗、星野や寺西にはシングルで勝利している。この時は全27戦を完走している。このシリーズでエリオから縄跳びをプレゼントしてもらった話は一度書いたと思う(新日本10周年の大田区体育館)。私がブラックマンからマスクを貰ったのを見たエリオは控室へ戻って「はい、これ」って、黄緑色のロープと木のグリップの付いた何の変哲もない古びたメキシコ製の縄跳びと手渡された。そういうエリオの優しい気持ちにホロリと来た。マジでマスクより縄跳びのほうが嬉しかったよ。グラシアス、エリオ…。
初来日と2度目の来日の間の彼のアクションは興味深い。79年末からタイガー・ジェット・シンがメキシコに来るたびに、彼がパートナーを務めたこともその一つ。それは日本での上田馬之助のポジションとそっくりであった。ただシンは先輩のコロセッティをかなりリスペクトしていたようだ。また81年9月25日のエル・トレオではこんなカードが組まれた。コロセッティはバレンティーノとの“ロス・ゲレジェロス”(ゲリラ軍)で小林邦昭&ヒロ斎藤とタッグのカベジェラ戦をやっている。これが地元ファンにとっては番狂わせとなる。キャリアのある歴戦の勇者のゲリラ軍はまさかの敗北を喫し、坊主になったのだ。彼がメキシコ人以外の外国人にカベジェラ戦で敗れた唯一の試合がこれであった。今頃、天国でエリオは邦昭さんと再会しているかもなあ…。コロセッティは77年から82年までUWAにいたが、スペル・リブレスを経てEMLLに復帰し、86年にはエル・インテルナショナル(国際人)なる万国旗をあしらったマスクマンに変身している。これ、名のあるルチャドールとしての末期症状。翌87年の国境地帯のシウダ・フアレスとヌエボ・ラレドでティニエブラスとビジャノ3号相手に2度のマスカラ戦をやって2度マスクを脱いでいる。いかに世界中で重宝に使われて来た選手とはいえ、そのニュースを聞いて少し寂しい気持ちになった。佐山さんに今回の訃報を伝えると「嗚呼、アルゼンチン人のね。85だったの?そんなに歳が離れているとは思わなかったなあ。日本の前にメヒコでも戦っているんですよ。メキシコ人とは少し違う面白い喋りをする人だった。心の優しいとてもいい人でしたよ。本当に残念ですねえ」との答えが返って来た…。ということで、佐山さんとともにエリオのご冥福をお祈りしました。 Discanse en paz
遂に難攻不落・最後の牙城を崩しましたよ。このトークショーは超レアです。大晦日も押し迫っていますが、偏屈者といわれる彼が指定した日は、年内のこの一点!大掃除を抜け出して是非とも、ご来場ください。